単純な生活

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本の本 #1 / 書評の教科書 12冊

 

 面白い書評を書くための教科書は、けっきょく優れた書評そのものなのだ。

 と言うわけで、読み応えのある書評集を12冊。

 

 

 

01. 『ニッポンの書評 / 豊崎由美』(光文社 / 新書)

ニッポンの書評 (光文社新書)

ニッポンの書評 (光文社新書)

 

  豊崎由美はプロの書評家である。作家でもなく、詩人でもなく、エッセイストでもなく、編集者でもなく、評論家でもなく、日本では数少ない“書評の専門家”である。

 この本は、豊崎由美が、自らの書評の書き方を惜しげもなく披露した1冊。

 書評家の役目から始まり、粗筋の書き方、書評の文字数、ネタばらしはどこまで許されるか、プロの書評と感想文の違いなど、書評に関するあらゆることを俎上にあげて詳しく解説していく。

 Amazonのカスタマーレビューに対する過剰とも思えるダメ出しもあり、ダメ出しをしたレビューを著者が書き直すという怖いこともやっている。

 巻末に著者と大澤聡の対談あり。

 

 

 

02. 『もっと、狐の書評 / 山村修』(筑摩書房 / 文庫)

もっと、狐の書評 (ちくま文庫)

もっと、狐の書評 (ちくま文庫)

 

  1981年の冬、<狐>と名乗る匿名の書評家が、日刊ゲンダイの書評ページに登場した。<狐>は、毎週1回現れ、わずか800字で1冊の本を書評する。とりあげる本は、高邁な美術書から小説、漫画、はては料理本にまで及んだ。取り上げた本の核心を的確につかみ、読んだ者が、かならずその本を手に取りたくなる書評は、読書家の間で評判となり、<狐>の書評は2003年まで約22年間続くことになる。取り上げた本は1200冊ちかくにのぼる。

 残念なことに、<狐>(山村修)は56歳の若さでこの世を去り、その書籍のほとんどは現在絶版になっているが、古書ではわりとかんたんに手に入る。読めば、800字でこれだけ凄いことができるのかと感動を覚えるはずである。

 

 記憶の作家、といっていい。ある夏の夕べの遊園地を書けば、そこに淡い水色の空がある。ジェット雲のオレンジ色の輝きがある。友人たちの横顔がある。その三十年前の光景が、ゆったりと熟成した時間を思わせながら、われわれの目に映る。異質の「過去」が、異質でも何でもなく、われわれの「過去」ともなって、生きはじめる。

 ただならぬ筆力だが、それを名文とか美文とか呼んではならない。そう呼ぶことは、この本のもっとも精妙な部分を汚れた手でけがすような気がする。

 須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」の書評

 

 スポーツ小説とスポーツ批評において、虫明亜呂無よりも遠くまで行った者はまだ一人もいない。かってスポーツをめぐって書かれた、あらゆる言葉の未到の地点へ、虫明亜呂無の言葉はとっくのとうに跳んでいると断言できる。(中略)はじめに虫明亜呂無がいた。あとはいない。

 虫明亜呂無「時さえ忘れて」の書評

 

  この人の書評は、とにかくかっこいいのである。

 

 

03. 『快楽としての読書・日本編 / 丸谷才一』(筑摩書房 / 文庫)

快楽としての読書 日本篇 (ちくま文庫)

快楽としての読書 日本篇 (ちくま文庫)

 

  書評と言えば、丸谷才一である。

 現在、日本の新聞や雑誌に載っている書評の原型を作ったのは丸谷才一ではないかと、わたしは密かに思っている(たぶん間違ってるだろうけど)。

 この本は、1964年から2001年までに書かれた書評(およそ600編)の中から123編を選んでまとめたもの。いわば丸谷才一の書評ベスト盤である。

 

 とにかく品が良い。けして声を荒げることなく、静かに語り、いつの間にか読み手を説得させてしまう。まさに名人である。

 たとえば…

 

須賀敦子は、われわれは数多くの貴重なものを失ひながら生きつづけなければならないという辛い認識を、当今まれな上質の散文によって差出す。そして重要なのは、愛惜するに足るものの価値を彼女が巧みに書くことができるからこそ、喪失が身にしみるといふ事情である。息の長い、しっとりとした、趣味のよい文章で、彼女はミラノの霧の匂ひを、ガッティの優しさを、夜のヴェネツィアの運河の水音とつながれてゐる小舟の舳先が波の上下につれて岸辺の石にこすれる音を書く。(中略)わたしはこの本によって、生きることの喜びと哀れさを存分に味はう思ひがした。 

須賀敦子著「ミラノ 霧の風景」の書評

 

 先ほど紹介した<狐>の書評と比べると差は歴然としている。<狐>の書評には、講談師が張り扇で釈台をパン!と叩く感じがあるが(また、それが魅力でもあるのだが)、丸谷才一は、どこまでも静かである。須賀敦子の文章を、<狐>は「ただならぬ筆力」と書き、丸谷才一は「当今まれな上質の散文」と書く。この違い。

 

 <狐>と丸谷才一だと、後者のほうが真似しやすそうだが、それは間違いである。まあ、どちらも真似するのは難しいのだが、より難しいのは丸谷才一のほうだろう。ここまで静かに語って、読み手を納得させる技は並大抵のものではない。繰り返すが、書評の名人なのである。

 

 

04. 『快楽としての読書・海外編 / 丸谷才一』(筑摩書房 / 文庫)

快楽としての読書 海外篇 (ちくま文庫)

快楽としての読書 海外篇 (ちくま文庫)

 

  丸谷才一の書評ベスト盤の海外編である。116編が収められている。

 冒頭に、「イギリス書評の藝と風格について」という一文がおかれている。著者の好きな書評、そして理想とする書評はイギリスの書評なのだ。

 

 …書評はまづ本の内容の紹介であった。どういふことがどんな具合に書いてあるかを上手に伝達し、それを読めば問題の新著を読まなくてもいちおう何とか社会に伍してゆけるのでなくちゃならない。ジェイン・オースティンといふいま評判の女の子の書いた小説は結婚の話だそうですね、やはりあれは大事なことですからな、とか、バイロン氏の『ドン・ジュアン』はじつにふざけたものらしいですな、とか言へるのは紳士貴顕の資格なので、この、時間の節約に貢献するといふのは最低の条件だった。

 (中略)

 紹介の次に大事なのは、評価といふ機能である。つまり、この本は読むに値するかどうか。それについての書評家の判断を、読者のほうでは、掲載紙詩の格式や傾向、書評家の信用度などを参照しながら、受け入れたり受け入れなかったりするわけだ。

 (中略)

 そして書評家を花やかな存在にするのは、まづ文章の魅力のゆゑである。イーヴリン・ウォーの新聞雑誌への寄稿は、流暢で優雅で個性のある文体のせいで圧倒的な人気を博したと言はれるが、この三つの美質(流麗、優雅、個性)は、たとへウォーほどではなくても、一応の書評家ならばかならず備えてゐるものだらう。

 

 

05. 『ロンドンで本を読む / 丸谷才一編』(光文社 / 文庫)

ロンドンで本を読む  最高の書評による読書案内 (知恵の森文庫)

ロンドンで本を読む 最高の書評による読書案内 (知恵の森文庫)

 

 丸谷才一が編集した現代イギリス書評名作選。

 とにかく評者が豪華である。キングズレー・エイスミス、イーヴリン・ウォーアントニー・バージェス、サルマン・ラシュディなどなど、錚々たる名前が並ぶ。なかでも、ルース・レンデル(イギリスのミステリー作家)の名前があるのには、少し興奮する。

 書評は、とうぜんだがどれも素晴らしい。書評のひとつひとつに丸谷才一の解説がつくのも嬉しい。

 

 

06. 『嵐の夜の読書 / 池澤夏樹』(みすず書房

嵐の夜の読書

嵐の夜の読書

 

  池澤夏樹の書評は、外へと向かう。どんな本を取り上げても、視線はその本の中で完結せずに、外の世界で現在進行形で起きている事象へと向かうのだ。そこが、わりと取り上げた本の中で完結していた丸谷才一との、いちばんの違いのような気がする。

 この本は、毎日新聞の「今週の本棚」欄に載せた書評を集めたもの。1999年から2008年までの10年分。

 

 

07. 『愉快な本と立派な本 / 丸谷才一池澤夏樹・編』(毎日新聞社

愉快な本と立派な本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選(1992~1997)

愉快な本と立派な本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選(1992~1997)

 

  毎日新聞の書評欄「今週の本棚」のベスト集成。2011年までをまとめたシリーズ全3巻の1冊目。

 評者は、丸谷才一池澤夏樹をはじめ、鹿島茂島森路子須賀敦子川本三郎…など。

 じつに楽しい本で、書評好きにはたまらない。上記の評者以外にも様々な人が書いており、いろんなタイプの書評に出会うことができる。

 

 

08. 『本の森の狩人 / 筒井康隆』(岩波書店 / 新書)

本の森の狩人 (岩波新書)

本の森の狩人 (岩波新書)

 

  正統派の書評が続いた後に、異端(と言うほどではないが)の書評集である。

 驚くことに、取り上げる本によって、文体がころころ変わる。

 

 ぼくの読者だというこの欄の担当者が面白がって、毎回文体を変えて書けなどというものだから、前回は「ですます調」で書いたものの、あれはえらく紙面を無駄にする、つまり情報量が極度に少なくなる文体であることがわかった。

 で、今回はいつもの文体に戻る。 ~『回想 開高健 / 谷沢永一』の書評

 

えっと。唯野です。今回筒井さんは小説の方でいそがしいのでお前でろということで。でもさ、大学の授業でやる文学理論と書評とは違うんだよね。そりゃもう、大ボケと小ボケくらい違う。どっちが大ボケかは言わないけど。 ~『花迷宮 / 久世光彦』の書評

 

あははははははははは。やっぱり面白かったではないか。丸山健二「千日の瑠璃」のことである。だから言ったでしょう鵜飼君。唾を吐きかけるような酷評だったからといって、案の定『通俗的な』イメージだの描写だの言語だのと言っている若手批評家を信用したらえらい目にあいます。いやあ読んでよかったなあ。 ~『千日の瑠璃 / 丸山健二』の書評

 

 これは、筒井康隆だから許される芸当である。けして真似できるものではない(まっ、真似しようと思う人もいないだろうけど)。ただただ、筒井康隆の芸を楽しむための書評集である。

 しかし、文体を毎回変えてふざけているようだが、書評としてのツボはしっかりと押さえている。丸谷才一の言う書評の3大要素、すなわち「本の紹介」「本の評価」「文章の魅力」、すべてを備えているのである。

 みもふたもない言い方をすれば、こう言うのを“才能”と呼ぶのだろう。

 

 

09. 『乙女の読書道 / 池澤春菜』(本の雑誌社

乙女の読書道

乙女の読書道

 

  どうせ親の七光りを利用して(池澤春菜の父親は池澤夏樹)、ふわふわとした愚にもつかないエッセイを書いているんだろう? と思いながら読んでみたら、これが意外にもちゃんとした書評集で驚いた。変な先入観を持ってごめんなさい。

 書評詩「本の雑誌」に連載した書評5年間分を1冊にまとめたもの。取り上げているジャンルは、主にSF系のエンターテインメントである。

 小栗虫太郎ペダンチックな活字と、ダン・シモンズ張りの大風呂敷、グリム童話的シニカルを混ぜ合わせてSFを書いたら……ジョージ・R・R・マーティンの『タフの方舟』の出来上がり。

 

 この季節になると無性に読みたくなるのが、サミュエル・R・ディレイニーの『ノヴァ』。ディレイニーだったら、『バベル―17』も『時は準宝石の螺旋のように』も大好きだけど、秋と言えば『ノヴァ』。

 

 実は私、衒学的なお話が大好物です。要するに大風呂敷で荒唐無稽でキラキラしいうんちく。

 そもそもで言えば、小栗虫太郎だし、中井英夫であり、澁澤龍彦、もしくはウンベルト・エーコ。SFで言うなら、『タフの方舟』か、『マッカンドルー航宙記』。まぁでも、SFが好き、と言ってる時点で、ペダンチック好きなのはもう明らかなわけで…。

 

 いずれも冒頭の部分。出てくる作家の説明はほとんどない。なんて言うか、読者がその名前を知ってること前提で書いている。でも、これくらい知ってて当然でしょ? 的な嫌な感じはまるでない。文章は、とても素直で軽やかだ。

 巻末で、父親の池澤夏樹と対談している。それも楽しい。

 

10.『小泉今日子書評集 / 小泉今日子』(中央公論新社

小泉今日子書評集

小泉今日子書評集

 

  これはとても良い書評集である。

 読売新聞の書評欄(毎週日曜日)に掲載された10年分の書評を1冊にまとめたもので、書評ひとつずつに小泉今日子の短いコメントがつく。

 小泉今日子の書評には、本を読むことの喜びがあふれている。なによりもそれが読んでいて楽しい。

 かんじんなのは、読書の喜びを、評者と読者が共有できるということだ。それができた時点で、それはもうたんなる読書感想文ではなく、りっぱな書評である。

 

 この本を読み終えたとき、胸がスカッとした。このスカッは決して男の人にはわかるまいと思ったら更にスカッとした。 ~「均ちゃんの失踪 / 中島京子」の書評

 

  自分が自分であることを確かめられるものはなんにもないのかもしれない。そんなことを考えて少し不安になった。自分の身体に思い切り鼻を押し付けて、その匂いを嗅いで確かめてみたくなるような小説だった。 ~『江国香織 / がらくた』の書評

 

 小説は私のタイムマシーンだ。ページをめくれば、どこにでも、どの時代にも旅することができる。とても贅沢で、かけがえのない時間。 ~『漂砂のうたう / 木内昇』の書評

 

 いずれも冒頭の部分。書き出しを、これだけてらうことなく素直に書き出せるというのも、ひとつの才能だろう。

 

 

11. 『井戸の底に落ちた星 / 小池昌代』(みすず書房

井戸の底に落ちた星

井戸の底に落ちた星

 

  好きな書評家をひとりあげろと言われれば、わたしは、この人をあげる。丸谷才一でもなく、<狐>でもなく、池澤夏樹でもなく、小池昌代

 小池昌代は、詩人であり、小説家。高見順賞、萩原朔太郎賞、川端康成文学賞講談社エッセイ賞などなど、詩人・小説家として数々の賞を受賞している。

 

 わたしの場合、もっとも苦しみ多いのが、書評であったといえるかもしれない。本という素材があるのだから、気楽に書けると思われるかもしれない。私も自分に、そう、暗示をかける。でも逆効果。あー面白かった、と読み終えたのち、いざ、それについて書くとなると、こっちの心は、ぎしぎしこすれ、痛みもすれば消耗もする。分け入れば分け入るほどに、本とわたしの関係は、いよいよ複雑さを増していくというありさまだ。 ~『井戸の底に落ちた星 』あとがき

 

 と、著者は書いているが、じっさい書評を読むと、じつに読みやすく、本の魅力がまっすぐにこちらまで伝わってくる。

 

 文章を書くとは、この世にひとつの「気配」を現すことである。本書を読むと、そう言ってみたくなる。ここにあるのは、目には見えない、確かに気配とか気といえるようなもので、感じるひと、感じようとするひとにはなじみの濃いものだが、無関係に通りすぎるひとも多いかもしれない。そういう意味では少数者のために、そっと開かれてある世界という気がする。 ~「家守綺譚 / 梨木香歩」の書評

 

 いい小説だ。人が生きる空間の幅と深さを、とてつもない言葉の力で押し広げる。読み終わったあと、虚脱感と充実が同時にやってきて、自分の足裏の底がぬけた。それでいて、いまここにいる自分自身が、底のほうから力強くあたたかく抱きとめられたようでもある。誰によって? 死者たちによって。 ~「黄色い雨 / フリオ・リャマサーレス」の書評

 

 優しく知的な文章である。本を読んで感じたことが、抽象的なことばで語られているのだが、わけのわからなさはなくて(ことばのチョイスが的確だからだろう)、むしろ、著者が受けた感動が、そのまま伝わってくる。

 素晴らしい書評集である。

 

 

12. 『本に読まれて / 須賀敦子』(中央公論社

本に読まれて (中公文庫)

本に読まれて (中公文庫)

 

 須賀敦子の書評集である。

 もうね、この人の文章は、書評ですら美しい。 

 

 仕事のあと、電車を途中で降りて、都心の墓地を通りぬけて帰ることがある。春は花の下をくぐって、初冬のいまはすっかり葉を落とした枝のむこうに、ときに冴えわたる月をのぞんで、死者たちになぐさめられながら歩く。日によって小さかったり大きかったりするよろこびやかなしみの正確な尺度を、いまは清冽な客観性のなかで会得している彼らに、おしえてもらいたい気持ちで墓地の道を歩く。 ~「バスラーの白い空から / 佐野英二郎」の書評

 

 こんな文章で書評を始められる人はあまりいない。だから、“書評の教科書”としては、まったく役に立たない。

 

 もし、十二世紀のある日に、アッシジの大聖堂から遠くない織物問屋に、やがてフランチェスコ命名される男の子が生まれなかったら、キリスト教が説く「清貧」の概念は、ずいぶん違ったものになっていただろう。フランチェスコの偉大さは、みずから選びとった「まずしさ」を、荘厳にではなく、たとえば詩のように本質的に生きたことにある。 ~『エリオ・チオル写真集 アッシジ』の書評

 

 須賀敦子の書評を読むことは、彼女のエッセイを読むことと同じくらい充実した読書体験であり、書評というものが、どれだけ高い地点まで行けるものなのかを知ることでもある。