タイトル : 紅いノート
著者 : 古木鐵太郎
収録短編集 : 『私小説の冒険 1 / 貧者の誇り』
出版社 : 勉誠出版社
古木鐵太郎(こき・てつたろう)は、1899年(明治32年)に鹿児島に生まれ、1920年(大正9年)に上京し、改造社に入社。改造社は後に円本ブームなどで大きな出版社となるが、古木が入ったころは営業もいれて社員はわずか7人だった。古木は編集者として葛西善三ら多くの作家たちと交わり、自らも作家を目指すようになる。
1927年に改造社を辞め、本格的に小説を書き始める。発表の舞台はマイナーな文芸誌ばかりで、作品はたいして評判にもならず、生活は困窮する。
昭和28年(1953年)に体調をくずし、回復することなく、翌年逝去。享年55歳。
生前に出版された小説集は、わずか1冊だけである。
「紅いノート」は、死後に出版された小説集に収められている作品。
尾崎一雄は、《この作品は、発表当時はもとより、今に至るまで、誰からも何とも云われていない。しかし私は、忘れることができない》と書き残している。
……誰からも何とも云われていない、と言うのが凄い。
では、あらすじを。
★★★
あらすじと言っても、ストーリーに劇的な要素はほとんどない。
タイトルの「紅いノート」と言うのは、長女(高校生)がつけている日記帳のことである。父である古木は、あるときこのノートを見つけて、つい覗き見てしまうのである。そして、その内容に動揺してしまう。
私はずっと前から父が嫌いだ。なんであんなにいやな人なんだろう。もうたえられなくなる時もあるけれど、じっと我慢しているのに――。本当に頼りにならない人だ。利己主義にも程がある。何べん嫌な思いをしているか、本当に数えきれない。だけど、あんまりそんなことを書くのもいやだから、今までは書かなかったのだ。もう頼りにしまい。あんなことじゃ立派な芸術なんか出来っこない。
古木は、長女の学費を何カ月も滞納している。そのことで長女に責められてもいるのである。しかし、作品は売れず、金は入らず、なすすべがないのである。
そこで長女は、自分でなんとかしようと、編みものをして少しでもお金を稼ごうとする。
どうしたらいいんだろう。考えるとたまらなくなる。じっとしていられなくなる。編みものをしているために、したいことが出来ない。昼間は気がつかないで、一生懸命やっているけれど、夜になって考えると、どうしたらいいかと思って、大声をあげて泣きたくなる。絵をかかなくちゃならない、勉強はしなくちゃならない。作文も書きたい。洋服もつくりたい。もう四月になってしまったのに、お金さえなんとかなれば片がつくのだけれど、月謝が納めてないから気が落ち着かなくて苦しくてならない。…(中略)…お金が欲しい。決して沢山のお金を欲しがっているのじゃない。こんなに困りたくないと思うのだ。
古木は、かすかな動悸を感じながら、日記帳を元に戻す。
長女が日記に綴っている自分への評価は、すべて的を得ている。図星なのである。返す言葉がないのだ。
悄然としながらも、しかし、心のどこかで、自分を嫌う娘を愛おしく思ってもいるのである。
そのまま、日記を覗き見したことは黙っていれば良いものを、ある諍いのおり、「悠子(娘の名)の気持ちなんか分かっている。ちゃんとお前の日記帳を見たんだから」と口走ってしまうのだ…。
まったく、なんてことを!
「古木のバカ…」と読み手は思ってしまうが、後の祭りである。
父親の哀しみがひしひしと伝わってくる名作。
★★★
◆収録短編集 『私小説の冒険 1 / 貧者の誇り』 について
「初旅 / 壺井栄」「洟をたらした神 / 吉野せい」「紅いノート / 古木鐵太郎」「一夜 / 藤澤清造」「落穂拾い / 小山清」「汲取屋になった詩人 / 山之口獏」「暢気眼鏡 / 尾崎一雄」「貧乏遺伝説 / 山口瞳」「贅沢貧乏 / 森茉莉」「心の秤 / 阿部光子」「この世に招かれてきた客 / 耕治人」「一夜 / 西村賢太」の12編を収録。
山口瞳に貧乏を語られてもなあ、って気がしないでもない。
「二十四の瞳」で有名な壺井栄の作品は、この作家が類まれな私小説家でもあることが良くわかる名品。
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◇『市井作家列伝 / 鈴木地蔵』(右文書院)
著者の愛する私小説家たちの生涯と、作品の魅力を語ったエッセイ集。
とりあげている作家は、木山捷平、川崎長太郎、古木鐵太郎、小山清など16人。文学全集などでは他の作家との合集、あるいは名作集に1編か2編入るような、いわゆる“マイナー・ポエット”と言われる作家ばかりである。
「文游」という同人誌に連載していたものをまとめた本だが、同人誌レベルの文章ではない。
著者に筆名にちょっとビビるが…。
マイナー・ポエット系作家の代表、小山清の作品集。マイナーと言っても、古木鐵太郎と比べるとぜんぜんメジャーなんだが。岩波文庫にもしっかり入っているし。
でも、作品の感触はひたすら優しく、それでいて強靭で、古木鐵太郎の作品と通じるところがある。