▶『コロンバス』を観る。
2017年制作のアメリカ映画。
舞台はインディアナ州コロンバス。
翻訳を生業としてソウルで暮らす韓国系アメリカ人のジン(ジョン・チョー)は、高名な建築学者である父親が好演ツアー中に倒れたとの報せを受けて、モダニズム建築が点在することで有名な都市コロンバスを訪れる。
父親との確執を抱えるジンは、はやくソウルに帰りたいのだが、父親の意識が戻らないため、しばらくコロンバスに滞在することになる。
そこで、地元の図書館で働く女性ケイシー(ヘイリー・ルー・リチャードソン)と偶然知り合う。
ケイシーは、建築学の道へ進むことを夢に見てはいるが、薬物依存の母親の介護を理由に、新しい一歩を踏み出せずにいた。
美しい建築をふたりで見て歩き、それぞれの人生を語り合ううちに、ふたりのこころに変化が現れる…。
小津安二郎へのオマージュにあふれた作品。
固定カメラ、美しい線対称の構図、ときおり挟み込まれる町の風景、赤い小物…。
物語は静謐さにあふれていて、観る者のこころに静かにしみ込んでくる。
映画ではないが、似た感じの作品として、松家仁之の小説『火山のふもとで』を思い出した。
しかしねぇ(ここからは、少しだらだらと書くが)…。
こういうオマージュ系の映画は、元ネタの作品を観てないと面白さが十分には伝わらない気がする。
赤い小物が出て来たからといって、小津安二郎のカラー作品を観てないと「おっ」とはならないし。
で、(もんだいはここからなんだが)「おっ」となったらなったで、それを言うと少しうざい感じが漂う。
わたし、何気に小津知ってますから、みたいな。
少し前に町山智浩(映画評論家)が、娘といっしょにTVドラマの「ドラゴン桜」を見ていたとき、なにかのシーンで「おお! マッドマックスへのオマージュじゃん!」みたいなことを叫んだら、娘さんに「パパ、そう言うのいいから」って言われて、少し凹んだとツイートしていて笑ったのだが、多くの映画ブログが、これと似たことをしている感じもするのである。
知識のひけらかし感と言うか。
そういう「ウザさ」の罠は、こういうオマージュ系の映画にはたくさんちりばめられていて、気をつけないと、かんたんに罠にはまってしまう(作っている側は、もちろん罠だなんて思ってないだろうが)。
とくに小津安二郎とかは、やばいよね。
世界中のいろんな監督が(カウリスマキとかヴェンダースとか、ときにはタランティーノですら)さりげなく、あるいは確信犯的に小津的画面を入れて来たりするので、油断ができない。
それに気づいたときに、何も考えずに「このシーンは、小津やね」とかやっちゃうとウザがられる。
でも、言いたい気持ちもわかる。
少し前の行で、「世界中のいろんな監督が小津的画面を入れてくる」と書いたが、これすら、知識のひけらかしだったりするのである。
「わたし、小津的画面に気づいちゃってるもんね」ってことを言いたいわけだね、わたしは。
うーん、生半可な知識を持った映画ファンは、すげー面倒くせーな “笑”。
▶ Larry Lee の『Marooned』(1982) を聴く。
1980年代AORの名盤のひとつ。
ソロがこれしかないので、一発屋あつかいしているブログを読んだことがあるが、The Ozark Moutain Daredevils の名曲「Jackie Blue」の作者でもあるので、一発屋ってわけではない。
日本では、この映画につかわれて、そこそこヒット。
むかしむかし、南青山というクソお洒落な街に「パイド・パイパー・ハウス」という、それはそれはお洒落かつ尖がった輸入盤屋があって、初めて(こわごわと)店に足を踏み入れたときに買ったのが、このアルバムだった。
とうじ中央線沿線の荻窪という街に住んでいたわたしにとって、南青山というのは異質な文化圏で、一言で言うと「肌に合わない」感じがして、二度と足を運ばなかった。
このアルバムを聴き返すたびに、「パイド・パイパー・ハウス」に入った瞬間の、「場違いなところに来てしまった…」感を思い出して、少し動揺する。
▶ 沢田英男彫刻作品集『かたわらに』を、ぱらぱらと眺める。
良いなあ。
ひとつ欲しいが、お高いんでしょうねぇ。