▶5時過ぎに起きて、いつものように苦くて熱い珈琲を飲む。
酒も煙草も嗜まないわたしにとって、珈琲は唯一の悪癖かも知れない。
“悪癖”ってほどは悪ではないが。
珈琲をふぅふぅ飲みながら、伊藤弘了著『仕事と人生に効く教養としての映画』を読む。
「仕事と人生に効く」という部分が余計な気もするが、こういうタイトルにしないと売れないのかな。
著者は、大学で映画を教えているひとで、ときどき名作映画の謎解き的なツィートをバズらせている。
専門は、小津安二郎の研究。
フレディ・マーキュリーの伝記映画『ボエミアン・ラプソディ』のクライマックスシーン(1985年のライヴエイド)で駆使された映画技法と、レニー・フェンシュタールが監督したナチスのプロパガンダ映画『意志の勝利』で使われた映画技法の共通点を解説する章がすごく面白かった。
どちらの作品も、猫が重要な役割を担っているという指摘には、ほほーってなった。
▶『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を観る。
1975年制作のベルギー・フランス合作作品。
監督はフェミニスト映画の先駆者、シャンタル・アケルマン。
カメラは固定されたまま、未亡人ジャンヌ・ディエルマンの日常を淡々と映し出していく。
台詞はほとんどなく、聞こえてくる音は生活音のみである。
音楽もない。
ジャンヌは、6年前に夫を亡くし、いまは思春期の息子とともにアパートで暮らしている。
彼女は、料理や買い物や息子の世話など、日々の家事をこなしつつ、その合間に自宅で売春をしている。
料理も売春も、まったく同じ温度で描かれる。
と言うか、ジャンヌが家事と売春を、まったく同じ温度でこなしているのである。
ジャンヌの3日間の生活が描かれるが、2日目の中盤あたりから彼女の規則正しい生活にほころびが見え始める。
そして3日目の最後に、そのほころびが悲劇的な破たんへとつながっていく。
いやあ、凄い映画だったな。
ほぼノーカットで描かれる家事のシーンに、なぜか目が釘付けになってしまう。
カット割りとか、クローズアップとか、カメラの移動とか、回想シーンとか、映画技法のすべてを削り取り、固定されたカメラでジャンヌの動きだけを映していくのである。
息子と会話するときもカットが変わったりはしない。
映画的テクニックを一切使っていないにもかかわらず、映像の力が凄くて、1秒たりとも画面から目を離すことができない。
凄い。
英国映画協会の「史上最高の映画ベスト100 / 2022年版」で女性監督の作品としては初のランキング1位に輝いている。
▶午後、根津方面へ散歩に出る。
千駄木から根津へ、通称“へび道”と呼ばれているクネクネと折れ曲がった道を歩く(へび道は暗渠になっていて、アスファルトの下には川が流れているらしい)。
むかしは、ふつうの住宅街だったのだが、さいきんはちいさな雑貨店とか焼き菓子の店とかカフェとかができてきて、すっかりおしゃれな道になった。
根津に出て、根津交差点ちかくの「ごはんが進む食堂」で遅めのランチ。
妻がビールを頼む。
水のコップよりちいさなビールw
なんか可愛い。
▶3時過ぎに帰宅し、競馬。
安田記念。
4番のセリフォスと18番のソングラインの馬連、ソングラインの単勝を千円ずつ買う。
久しぶりに的中。
外枠の差し馬に乗ったときの戸崎はなるべく買うようにしているのだ。
それにしても三浦皇成はなかなかG-Iを勝てないよなぁ…。
最終レースも、なにも考えずに1番人気と戸崎を買ったら的中。
考えても考えなくても、当たる時は当たる。
予想っていったい何?
▶クイーンの『INNUENDO』(1991)を聴く。
クイーンのラスト・アルバム。
1曲目の「Innuendo」は、どこかツェッペリンっぽいうねりを感じさせるが、ボーカルの美しい伸びやかさはクイーンである。
ぜんたいにタイトで美しい。