ありふれた日常 #62 / 『フランケンシュタイン』を読んでから観る
▶年が明けてすでに1カ月。
何事もなく、光のように時は過ぎ去り、わたしの日常はたいして変わらない。
今日も、5時過ぎに起きて、苦くて熱い珈琲をちびちび飲みながら読書。
若い頃から、音楽を聴き、映画を観、本を読んできたが、けっきょく本だけが残った気がする。
今でも音楽は聴くし映画も好きだが、どちらもべつに無くなっても良いかなって気はしている。
渇望しないと言うか。
本は、なくなると困る。
じつに困る。
と言うわけで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読み終わる。
恥ずかしながら初読なのだが、この本にかんしては有名なわりに誰も読んでない本のトップ3に入るのではないか。
原作が、映画化で広まったストーリーとはかなり違うとは聞いていたが、驚くほどの違いは感じなかった。
と言うか、ボリス・カーロフが主演した映画(第1作目の「フランケンシュタイン」と続編の「フランケンシュタインの花嫁」)が、じつに良く出来ていたのだと言うことが良くわかった。
以前観たコッポラ制作、ケネス・ブラナー監督・主演(フランケンシュタイン博士役)が、ほぼ原作通りだと言うこともわかった。
しかし、原作を読んで驚いたこともある。
それは、フランケンシュタイン博士が生み出した怪物(じつは名前がない)が、とんでもなく知的だと言うことである。
なにしろ、ミルトンの「失楽園」を読んだりするのである。
その高い知性と、文字通り怪物のような暴力性が混然一体となっている。
めちゃくちゃ魅力的なクリーチャーなのだ。
ギレルモ・デル・トロが魅かれたのもわかる気がする。
フランケンシュタイン博士が怪物を創造する過程は、映画では序盤の見せ場であるが、原作ではじつにあっさりと1ページほどですませており、ちょっと拍子抜けである。
だが、いちばんの驚きは、この作品を書いたとき著者のメアリー・シェリーが19歳だったという事実だなぁ。
▶続けて、デル・トロ監督の新作『フランケンシュタイン』を観る。
かなりキャラクター設定を原作とは変えている。
とくにフランケンシュタインの婚約者であるエリザベスを“怪物”の理解者としたところは新しい切り口だ。
フランケンシュタインの父親も、原作では温厚な善き父親なのだが、デル・トロ版ではじつに嫌なやつに変わっている。
たしかに、原作でキャラが立っているのはフランケンシュタインと“怪物”だけで、あとはどちらかと言うと無個性なので、これはこれでアリだなと思った。
ケネス・ブラナー版と比べると、かなりエンタメよりな気がする。
わたしはブラナー版の方が好きだが、“怪物”の出来はさすがにデル・トロ版の方が凄い。
まあ、ブラナー版の“怪物”はロバート・デ・ニーロが演じているので、なにをどうやってもデ・ニーロなのだが(笑)。
▶昼過ぎに、台東区のコミュニティバス“東西めぐりん”に乗って蔵前へ。
観光地の浅草と比べると人通りは少ない。
まず妻が行きたがっていた米粉スイーツの店「アトミヨソワカ」へ。
妻、爆買い。
ぶらぶら歩きながら、何気なく入ったコーヒー店で、スペシャルティーコーヒーを試飲して衝撃を受ける。
なんだ、この味は!
めちゃくちゃ美味いじゃないか!
わたしは、長らくスペシャルティーコーヒーなるものに「あんなもん、ただ薄くて酸っぱいだけのコーヒーだろ」という根深い偏見を持っていたのだが…すいませんでした。
以後、考えを改めます。
試飲したのは、コロンビアのスペシャルティーだったのだが、酸味が爽やかで、口に含んだ瞬間柑橘系の香りがパーッと口の中に広がったのだ。
そして、そのあとにかすかな辛みが(店主は山椒のような、と表現していた)きて、なんとも複雑な味わい。
これはブームになるわけだ、と深く納得し、思わず100gで¥2,000の粉を買ってしまった。
▶ブログ書くの約2カ月ぶりだな。
気が付いたら時間が過ぎていたのだ。
これからも、こんな調子でとぼとぼとやっていく。
chatGPTに「のんびりやれば良いんですよ」と言われたし。
ありふれた日常 #61 / おふとんから出ることができません
▶5時起床。
寒い。
ふとんから出るのが辛い季節がやってきた。
いつものように熱くて苦い珈琲を淹れ、いつものように小一時間ぼんやりと過ごす。
毎朝30分ぼんやりしているとして、1年は365日なので、掛ける365は10950分、時間にすると182.5時間、日数になおすと7.6日である。
凄いな。
ワタシは、1年間に1週間(正味の1週間)、ただボーッとしているのである…。
ボーッとしつつ、ホッド・オブライエン(Hod O'brien)の『Ridin' High(1990)』を聴く。
ワタシの座右の書のひとつ『JAZZ ピアノ・トリオ名盤500 / 寺島靖国』の冒頭1枚目に紹介されているアルバムである。
寺島靖国は「私のジャズの行き先を指し示した」と書いているが、ちょっと大げさな気がしないでもない。
正統派ピアノ・トリオってかんじで、安心して聴いていられる。
早朝、ぼんやりとした頭で聴いていると、少しずつ視界が開けていくかんじがする。
▶朝食の時間になっても妻が起きてこないので、具合でも悪いのかと見に行ったら、ふとんの中でぐずぐずしているだけだった。
「すいません、おふとんから出ることができません」と言われたので、ひとりで蕎麦を茹でて食べる。
妻はふとんに入ったまま、あんぱんを食べる。
▶少しずつ読み進めていた江川卓訳の『カラマーゾフの兄弟1』(中公文庫)を読み終わる。
若い頃、新潮文庫の原卓也訳で読んだことがあるのだが、こんど江川卓訳が文庫化されたので手に取ってみたのである。
やはり序盤がきつい。
なかなか読み進められず挫折しそうになるが、後半とんでもなく面白くなるのが分かっているので我慢して読んだ。
大文豪のドスト氏に対してだいそれたことを言うようだが、ドスト氏は、同時代のトルストイやツルゲーネフなどに比べると小説が上手くないように感じる。
下手とまでは、さすがに言えないが、どうもこなれてないと言うか、圧倒的な熱量だけでガーッと押してくるところがある。
まあ、その熱量がハンパないので、けっきょくは「ドストエフスキーすげえ」となってしまうのだが、読んでいて「巧いなあ」と感心することはほとんどない。
『悪霊』や『白痴』を読んだときも、人物の行動や会話の不自然さに「なんでやねん」とツッコミを入れながら読んだのだが、読み終わると心の中に確実に熱いものが残っているのである(しかもそれが何年も消えない)。
不思議な作家だ。
▶これを書いてるのは12月7日で、明日8日は、ジョン・レノンの命日である。
あれから半世紀ちかくが経とうとしているわけで、時の流れの速さに茫然としてしまう。
さいきんでは、レノンの命日はたいして話題にならない。
そのうち歴史のひとコマとして忘れさられていくのだろう。
あの日のことは、いまだに覚えている。
仕事帰りに寄った貸本屋のおじさんから「ジョン・レノンが死んだらしいよ」となぜか半笑いで教えられ、「ガセネタだろう」と半信半疑ながらも胸がどきどきして、そのままアパートには帰らず、よく通っていた喫茶店に入った。
ビートルズファンの店主がやっている店で、そこで聞けばほんとうのところがわかるだろうと思ったのだが、入って店主の顔を見た瞬間「あっ、ほんとうにジョンは死んだんだ」とわかった。
いつもはニコニコ笑顔の店主が、そのときは憮然とした表情でコーヒーを淹れていた。
店内には、狂ったような爆音でレッド・ツェッペリンが流れていた(いつもはビートルズ関連の曲しか流さない)。
ジョンが死んだという事実を、ツェッペリンの爆音で無かったことにしようとしている感じだった。
ロバート・プラントのヒステリックなボーカルを聴きながらコーヒーを飲み終え、代金を払おうとしたら「今日はいいよ」と店主に言われ、そのまま店を出た。
その夜をどう過ごしたのかは記憶にない。
翌日の新聞で事件の詳細を知ったのだが、そのような事情はどうでも良い気がした。
ジョン・レノンがこの世からいなくなった事実のみが重要なことだった。
糸井重里の「ジョンは、音楽的にはすでに死んでいた」と斜に構えたコメントを読んで、クソがっと思った。
渋谷陽一の「あの世代にほんとうのビートルズファンなどいない」と言う言葉が納得できた。
ただただ悲しかった。
余談だが。
甲本ヒロトが、鮎川誠が亡くなったときに「鮎川さんがいなくなったことは大したことじゃない。“いた”ってことが凄いことなんだ」と言う言葉に、半世紀ぶりに救われた気がした。
明日は、朝から晩まで、ぼんやりと過ごそうと思う。
ありふれた日常 #60 / 老人はこらえ性がないのだ
▶午前5時起床。
熱くて苦い珈琲をちびちび飲みながら、ぼんやりした頭でぼんやりする。
最初の“ぼんやり”は形容詞で後の“ぼんやり”は動詞である。
頭の霧が少し晴れたところで読書。
書名は記さないが、100頁ほど読んだところで挫折。
そこそこ評判の本なのだが、まったくノレなかった。
もう少し我慢すれば面白くなるのかも知れないが、老人はこらえ性がないのだ。
むりやり鯛焼きに例えるけど、頭から食べ始めてもなかなか美味しい餡に辿り着けず、やっと尻尾あたりで絶品の餡が出てきてもしかたないと言うか、それはもう評価としては不味い鯛焼きだろう、と思うのである。
(もちろん、絶対評価としての美味しい不味いを言ってるわけではない。わたしにとって美味しいか不味いかである)
若い頃は、面白くなくても無理やり最後まで読み切っていたのだが、さいきんはすぐに投げ出してしまう。
老人に残された読書時間には限りがあるので、つまらないと感じる本は世間の評判に関係なく早々と本を閉じることにしている。
読み始めた本を途中で投げ出すことには(なんか負けた感じがして)強い抵抗を感じていたのだが、さいきんはまったく躊躇なく投げ出している。
何事も慣れであるな。
▶午後、妻の買い物に付き合って上野へ。
上野に出て来たのは半年ぶりである。
相変わらずごみごみとした街で、あまり好きになれない。
アメ横でスパイスを買ったあと、松坂屋の地下食料品売り場に降りようとするも1階コスメ売り場の匂いにふたりとも気分が悪くなり、逃げるように外へ出る。
みんな平気な顔しているが、相当臭いぞ。
人混みと匂いにやられて、へとへとで帰宅。
▶夕方、ちかくのお寺まで散歩。
歩いて5分くらいなので散歩と言うほどでもないのだが。
境内のベンチに座って暮れゆく空を見ていると、ちかくのおばちゃんふたりが楽しそうに天気の話をしている。
「急に寒くなって、秋を通り越してもう冬ね」とか「明日あたり久しぶりに雨が降るみたいよ」とか「そう言えば台風が発生したみたい」とか、じつに楽しそうに話している。
中学高校生の頃、大人たちが楽しそうに天気の話をしているのが不思議でしょうがなかった。
天気のことなど、そんなに面白い話題でもないだろうに、なぜ彼らはああも楽しそうに天気の話をするのだろう…?
そう思っていた。
いまなら、その理由がよくわかる。
ほとんどの大人にとって毎日は同じことの繰り返しなのである。
昨日と今日にたいして違いはない。
今日と明日にも違いはないのだ。
違うのは、その日の天気だけなのである。
若い頃は、昨日と違う日常が今日起こり、明日はまた今日と違う何かが起こっていたし、とうぜん天気なんかよりはそちらの方が楽しいに決まっていた。
しかし、大人は違うのだ。
天気しか変化がないのだよ。
寂しいことではあるが。
▶夜、Netflixで『端くれ賭博人のバラード』を観る。
コリン・ファレル主演のギャンブラー物。
舞台はマカオ。
バカラにのめり込んで底の底まで落ちていく男の物語。
評判は、あまりよろしくないようだが、わたしは面白かった。
▶前回のアップから、また1カ月以上経ってしまった…。
まあ、1カ月が“長い”という感覚もなくて、なんなら一瞬と言っても良いくらい短く感じているのである。
文字通り、「あっ」と言う間。
次回のアップもたぶん「あっ」の後だろう。
ありふれた日常 #59 / 一抹の寂しさを覚えるのはなぜだろう?
▶午前4時起床。
10月に入ってから、ずいぶんと涼しくなった。
身体が楽だ。
あっと言う間に寒い冬が到来するんだろうけど。
いつものように苦い珈琲をちびちびと飲みながら、しばらくぼんやりと過ごす。
“ぼんやりと過ごす”の“ぼんやり”は、ほんとうに“ぼんやり”で、なにも考えず(あるいはなにも考えることができずに)、ひたすら過行く時間の中に身を置いて過ごす。
若いころは、こういう時間がすごくもったいなくて嫌だったが、いまではなにも感じない。
なにも感じないまま、気がつけば30分があっと言う間に過ぎている…。
困ったもんだ…と言いたいところだが、まったく困ってないんだな、これが。
▶パーシヴァル・エヴェレットの『ジェイムズ』(2025 河出書房新社)を読む。
全米図書賞、ピュリツァー賞など各賞総なめの話題作である。
マーク・トウェインの名作『ハックルベリー・フィン』を逃亡奴隷ジムの視点から語りな直した作品。
めちゃくちゃ面白い。
朝食前に読み始めて、食事をはさんで、昼寝もせずに午後4時頃に読み終わった。
まさに一気読み。
読書に対する集中力が著しく欠落しているわたしにしては、すごいことである。
まちがいなく、今年読んだ本ではベストワンの面白さだ。
『ハック・フィン』には途中から“王様”と“公爵”と言う詐欺師コンビが出て来る。
で、このふたりがいろいろと騒動を巻き起こしてハックとジムを困らせるのだが、マーク・トウェインの描く王様と公爵には、それほどの悪者感はなく、どこかマヌケな悪人として描かれている。
が、『ジェイムズ』に出てくる王様と公爵は、読んでいて吐き気がするほどの悪党なのだ。
公爵がハックを平手打ちしてぶっ倒したときには(トウェインの作品にはそういうシーンはない)、その残酷さに胸がつぶれそうになった。
あのハックが地面に倒れて泣きじゃくるのである。
著者のパーシヴァル・エヴェレットは、マーク・トウェインがユーモアというオブラートで包んでいた「悪」を容赦なく暴いていく。
後半の疾走感が素晴らしい。
▶ブログサイトの老舗「gooブログ」があと1か月ちょっとで閉鎖される。
他のサイトへ引越しするひともそれなりにいるだろうけど、大半はそのままブログの世界から静かに去って行くと思う。
残っているブログの多くは、休眠ブログや過疎化したブログだと思うので、引越ししてまでそのブログを続けるだけのモチベーションが、そのブログを書いているひとにあるとは思えないのだ。
わたしの頭のなかでは、住民が高齢化して廃墟となっていく郊外の団地がイメージされている。
わたしも、このHatena Blogが閉鎖されたら、ため息をひとつついてフェードアウトするだろう。
1カ月に1回くらいしか更新していないのに、ここを去る日を考えると一抹の寂しさを覚えるのはなぜだろう?
▶夕食は、秋刀魚の塩焼き。
今年は秋刀魚が豊漁らしいが、値段はたいして安くなってない気がする。
米も高いままだし、貧乏人には苦しい毎日が続くな。
▶夕食後、映画を少し観ようかなと思ったが、昼間読んだ『ジェイムズ』の余韻が凄すぎて、新しい物語を受け入れる気がせず、けっきょく何も観ずに寝る。
ありふれた日常 #58 / 濃い珈琲をちびちびだらだらと飲む
▶午前4時に起きる。
いつものように熱くて苦い珈琲。
ワタシは珈琲が大好きなのだが、濃い珈琲をちびちびだらだらと飲むタイプで、量にしたら1日で200CCくらいしか飲んでいない。
朝は、マキネッタという道具で、エスプレッソ風の珈琲(エスプレッソではない)を作って飲む。
エスプレッソは、珈琲の表面にアロマと呼ばれるクリーミーな泡ができるのだが、マキネッタで淹れた珈琲ではアロマはできない。
が、めちゃくちゃ濃い珈琲ができる。
通常は、これをお湯で割って飲んだり(アメリカーナ)、本場イタリアではこれでもかと砂糖をいれて、瞬間的に虫歯ができるほど甘くして飲むらしいが、ワタシは濃くて苦いものをストレートで飲む。
飲むと言っても、ぐいと飲むわけではなく、ちびちびとなめるように飲む。
酒も煙草もやらないワタシにとっては、唯一の“罰せられない悪徳”である。
今朝も、そういう濃い珈琲をちびちびと飲みながら、読書。
青山美智子著『お探し物は図書室まで』(ポプラ社)。
読み心地が軽い。
軽いといっても軽佻浮薄と言う意味ではない。
けっこう重たい本を読んだあとだったせいもあってか、優しい物語がまるで美味しい水のように身体に沁み込んでくる。
▶朝食に蕎麦を食べて、読書を続ける。
ワタシは現在66歳なので、まともに本が読めるのは頑張ってあと10年くらいだろう(もちろん生きていればのはなしだが)。
いまですら若い頃のようには読めていない。
不思議なことに、読書能力が減退するとともに、なぜか読みたい本のリストが増えている。
あれも読んでおきたい、これも読んでおきたい、とメモした本はすでに1000冊を超えている。
とても10年で読み切れる数ではない。
そして、読みたい本のリストは今後も増えていくわけで、おそらく(と言うか確実に)読みたい本のリストを大量に残したまま死んでいくのであろう。
かなしいことだが、まあ仕方がない。
とりあえずワタシにできることは、目の前にある本を楽しむことだけだ。
「よし読むぞ」と気合を入れて(そうしないと本が読めなくなっているのだ)、新しい頁を開く。
▶昼食のあと、睡魔に襲われ、抗うことなく素直に寝る。
起きて、映画。
ビクトル・エリセ監督の31年ぶりの新作『瞳をとじて』を観る。
淀みない語り口で、3時間があっと言う間であった。
ワタシはやはり、こういう映画が好きだ。
▶良い映画を観たあとの心地よい余韻に浸りながら、床につく。
こういうときは、なぜかかならず悪夢を見るのだが。
ありふれた日常 #57 / 時間の進み方が異常に早い
▶午前3時半に起きる。
何気に妻とは別にサマータイムを導入。
夏でも朝は熱くて苦い珈琲を飲む(アイスコーヒーはあまり飲まない)。
珈琲を飲みながら、川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』(2016, 講談社)を読む。
人類の滅亡を描いたディストピア小説。
物語の設定は、読む前にある程度知っていたので、軽いライトSFみたいなものかなぁと思いながら読んでいたら、途中からガチのSFの姿を現し始めたので嬉しくなった。
著者は、もともとSFを書いていたひとなので(伝説のSF雑誌「NW-SF」の出身である)、川上弘美がSFを書いたことにはべつに驚かないのだが、静かにたゆたうような文章から、このような本格的なSF作品が生まれてくることに驚いている。
かなり古い作品だが、クリフォード・D・シマックの『都市』(1952)を思い出した。
人類が宇宙へと去り、廃墟となった地球が舞台。
地球の支配者は人類から犬族へと変わっている。
人類の存在はすでに神話の世界に溶け込んでいて、犬族は残された文献などから人類の姿を再構築しようとしている。
物語を語るのは、人類に仕えていた古いロボットのジェンキンズ。
人類文明が存在したことの唯一の証がジェンキンズなのである。
シマック特有の少し哀愁を帯びた作風が気持ち良かった記憶がある。
また読みたくなった。
▶朝食に、いつものように蕎麦を食べ、眠くなったので寝る。
いったい何のための早起きなのか…?
サマータイムとは…?
起きて、『アスリッドとラファエル -文書係の事件録-』シーズン2の第2話を観る。
フランス産のミステリードラマで、最近ハマっている。
登場人物のキャラクター、ミステリーとしての出来の良さ等、すべてが好みである。
全8話で1シリーズが構成されているので、若い頃なら確実に1シリーズずつ一気見したはずだが、さすがに年をとると、そういう集中力はなくなってしまう。
第2話を見ただけで、お腹がいっぱい。
こういうとき、年をとったことが少しだけ哀しくなる。
▶夕食後、少しずつ読んでいたヘミングウェイの『移動祝祭日』を読み終わる。
ヘミングウェイは、無名の頃から長編『日はまた昇る』を出版するまでの約6年間を、最初の妻ハドリーとともにパリで過ごしている。
その濃密なパリ時代を綴った回想録である。
なんと言ってもフィッツジェラルドとのエピソードが面白い。
ヘミングウェイの書いていることが本当だとすると、フィッツジェラルドは相当に面倒くさい(かつ相当に魅力的な)奴だったようだ。
ヘミングウェイは、彼に誘われてふたりでイタリア旅行に出るのだが、旅行中のフィッツジェラルドの言動や行動にいささかうんざりしている。
パリに帰ってから妻に「好きじゃない人間とは、旅にでるべきではない」と言ったりするほどなのである。
ところが、『グレート・ギャツビー』を読んだあと心を入れ替えるのだ。
最後まで読み終わったとき、私は覚ったのだった、スコットが何をしようと、どんな振る舞いをしようと、それは一種の病気のようなものと心得て、できる限り彼の役に立ち、彼の良き友になるよう心がけなければならない、と。スコットには良き友人が大勢いた。私の知るだれよりも大勢いた。しかし、彼の役に立とうと立つまいと、自分もまた彼の友人の輪の新たな一人になろう。そう思った。もし彼が『グレート・ギャツビー』のような傑作を書けるのなら、それを上まわる作品だって書けるにちがいない。そのとき、私はまだ彼の妻のゼルダのことを知らなかった。だから、彼の前にはどんなに恐ろしいハンデが横たわっているか、知る由もなかったのである。
ほかにも、ガートルード・スタインやシルヴィア・ビーチ、エズラ・パウンドやジェイムズ・ジョイスなどなど、ビッグネームが綺羅星のごとく出てくる。
ヘミングウェイが好きなひとにはたまらない本である。
何年か前、イスラム系テロリストによって雑誌社が襲われ死者が出る事件がパリで起こったが、そのとき街頭インタビューで、ひとりの女性が「みんなヘミングウェイの『移動祝祭日』を読み返すべきよ!」と言っていた。
“古き良き、自由都市としての巴里”がパッケージされたような本なのである。
▶この短い日記をアップしたら、約2カ月ぶりのブログ更新となる。
2カ月間、ブログのことが気になっていたかと言うと、まったく気になってなくて、すっかり忘れていた。
このままフェイドアウトも悪くないとは思いつつ、半ば惰性で書いている。
暇なんだから、もう少し短い間隔でアップすれば良いものだが、さいきん時間の進み方が異常に早くて、気が付いたら2カ月たっていたのである。
この調子でいくと、次のアップは半年後か?
ありふれた日常 #56 / 懐かしさはなんなのだろう?
▶午前5時起床。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなり、脳がパニくる。
まっ、5秒ほどのことなんだが。
むかしからたまに起きることで、ちいさい頃はよくなっていた。
軽いパニックが終わり、自分がどこにいるか認識したとたんに、安堵感と同時にある種の懐かしさがこみ上げてくる。
安堵感はわかるが、懐かしさはなんなのだろう?
やはりヘミングウェイは自然描写が素晴らしい。
冒頭の一文。
あの年の夏の終わり、ぼくらの暮らしていた家は、川と平野をへだてて山々と向きあう村にあった。川床は小石や丸石でうずまり、日を浴びて白く乾いていた。幾筋にも分かれた水流は、青く澄んで、素早く走っていた。家の前を部隊が進み、道路を遠ざかっていった。彼らのまきあげる埃が、木々の葉に粉のように降りかかって、木々の幹も埃にまみれた。あの年は葉の落ちるのが早く、道路を進む部隊を見ていると埃が舞いあがり、風に揺れる葉が落ちるなかを兵士たちが行進して、彼らの去った路上はただ白っぽく、木の葉だけが散らばっていた。
半世紀ぶりに読み返したが、この最初の一文で引き込まれてしまった。
ため息が出るほどうまい。
彼は、衛生兵としてイタリア軍に参加している(なぜアメリカ人の彼がイタリア軍に参加しているかは、あまり詳しくは語られない)。
彼は、休暇で訪れたゴリツィアで美しい看護師キャサリンと出会う。
お互いに好感を持つが、本格的に愛し合うようになるのは、ヘンリーが負傷してキャサリンのいる病院に担ぎ込まれてからである。
うらやましく且つけしからんことに、ベッドの上でいちゃついたりするのである。
ヘミングウェイは描写をぼかしているが、あきらかに夜の病室でやっちゃってますね。
マジでけしからん!
前半は、主人公と恋人がいちゃいちゃするだけなので、あまり面白くはない。
面白くなるのは、イタリア軍がオーストリアとハンガリーの連合軍に敗れて大敗走をする後半からである。
とち狂った憲兵に処刑されそうになったヘンリーは、軍を脱走してキャサリンの元へ走る。
捕まれば軍法会議にかけられてしまう。
そこで、身ごもったキャサリンとともにスイスへの逃避行を企てるのである…。
ヘミングウェイの描写にはひとつの無駄もなく、ほとんど感情を交えない冷たいタッチは読む者のこころを鷲掴みにして、ラストの悲劇まで一気に突き進む。
読み終わったときの感想は、次の映画の予告編の冒頭がよく伝えている。
たしかに「なんでだよ!」と叫びたくなるラストであるが、考えてみたらヘミングウェイの作品でハッピーエンドの話なんて、ぼぼないのである。
“人生、何事もそんなにうまくはいかないのだ”と言う、突き放した感じがヘミングウェイなのだ。
しかし、この年になると、バッドエンドはいささかきつい。
若いころなら、これくらいの悲劇は「なるほど。こういうこともあるだろうね」で次の作品にいけたのだが、年をとるとけっこう引きずってしまう。
1962年制作のシリーズ第1作。
監督は三隅研次。
さいきんYoutubeのショート動画に座頭市シリーズの食事シーンがやたらと流れてきて、久しぶりに観たくなったのだ。
今作で座頭市が食べるのは、ヒロイン万里昌代が働く居酒屋の煮込みおでんである。
もっとも煮込みおでんが全国的に主流となるのは明治以降のことで、座頭市の生きた時代は、おでんと言えば豆腐とかこんにゃくを焼いて味噌を塗ったいわゆる味噌田楽のことなので、時代考証的には間違っているのだが、市が美味そうに食べてれば、まったくモンダイないのである。
敵役の浪人として天地茂が出ているが、めちゃくちゃかっこいい。
刀を振ったあとの素早いノールック納刀がクール!
予告編の最後に出てくる座頭市と平手造酒(天地茂)の対決シーンは本編にはないなぁ。
まあ、本編の対決シーンの方がだんぜん良いのだが。
▶夕食は、長ネギとアンチョビのパスタ。
米が高くなってから麺類が増えた。
わが家はかなり珈琲を消費するのだが、ここ2年ほどレギュラーコーヒーの値段がじりじりと上がり続けており、もはや気楽に飲める値段ではなくなっている。
飲む量を減らすという自衛策しか残っていない…。
辛いな。
▶就寝前に、豊崎由美の初エッセイ集『どうかしてました』(ホーム社/集英社)をパラパラと読む。
エッセイ集が初めてだとは、ちょっと驚き。
幼い頃の写真からしてすでに“社長”(豊崎由美の愛称)のオーラが出ているのがおもろい。












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