A : 読む 『気狂いピエロ / ライオネル・ホワイト著』
アメリカのミステリー作家ライオネル・オワイト(1905-1985)が、1962年に発表した犯罪小説。
ライオネル・ホワイトは、日本ではほぼ無名にちかいが、海外では有名作家のひとりで、いくつかの作品が映画化されている(有名なところではキューブリックの「現金に
体を張れ」)。
タランティーノも、「レザボア・ドッグス」の元ネタ作家のひとりとしてホワイトをあげている(たしかクレジットされてたような…)。
主人公のコンラッド・マッデンは失業中のシナリオライター。
妻子とともに郊外に暮らしているが、生活は苦しく、経済的な不安と焦燥が頭から離れない。
そんな彼が、アリーという17歳の美少女と出会ったことにより、破滅へと転落していく。
物語は、マッデンの一人称一視点で語られる。
マッデンは、アリーの性的魅力に溺れて、破滅的な終着点に向かって、ひたすら転がり落ちていくのだが、そこには一片の“愛”もない。
それはマッデンだけではなく、アリーについても言えることで、お互い自己中心的な欲望だけで行動していく。
ミステリー作品としては、飛びぬけて面白いわけではなく、かと言って致命的なキズがあるわけでもない。
この可もなく不可もない出来が、映画の原作としてはぴったりだったのかもしれない。
文庫本で300頁くらいなので、たいして時間をかけずにサクッと読める。
B: 観る 『気狂いピエロ / ジャン・リュック・ゴダール監督』
1965年制作のフランス映画。
監督は、ジャン・リュック・ゴダール。
もはや説明の必要もない映画史上に残る傑作。
主演は、ジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナ。
原作は、枠組みだけを残して跡形もなく破壊されている。
まず主人公の設定が微妙に、そして決定的に違う。
原作の主人公は常に経済的な不安を抱えて生活しているが、映画版の主人公は金持ちの女性(パパが石油業界の大物)と結婚しており、原作と同じく失業はしているものの経済的な不安とは縁のない生活をしている。
映画の冒頭から、ベルモンド演じるフェルディナンは、知的でちょっと人生に飽きた感じの男だ。
対する女性のほうだが、これもかなり違う。
原作では17歳の少女で、主人公は友人宅のパーティで初めて出会うのだが、映画版では元カノである(友人宅のパーティで出会うのは同じ)。
ふたりでパーティを抜け出して一夜をともにするのだが、その翌朝のシーン。
首にナイフが刺さった状態で男が死んでいる…。
これについて映画ではほとんど説明がない。
ただ、ふたりのモノローグで「複雑な話…急いで…悪夢から逃げる…人間関係…政治…組織…ズラかる…武器の密売…ひそかに、ひそかに…急いで逃げる…南仏へ」語られるだけである。
これで事情が理解できるひとなどいないだろう。
原作では、死んだ男(と言うか少女が殺した男)はマフィアの集金人で、その男が集めて来た金(かなりの大金)を奪ってふたりで逃げるのである。
が、映画版のふたりは、ほぼ無一文で逃げている。
車で逃げる途中で、事故車を見つけるふたり。
自分たちの車と一緒に火をつけて、擬装工作をする。
「これで警察も、私たちが死んだと思うわ!」
とマリアンヌ(A・カリーナ)が言うが、いや、それは無理だろう。
しかし、ここでフェルディナン(J・P・ベルモンド)が驚くべきことを口にする。
「車のトランクには、ドル札が入っていた」
「それがあればどこへでも行けたわ」とマリアンヌが文句を言うが、たいして惜しそうでもないのである。
つまり、かれらが逃避行を続けている理由は“愛”であって、金のためではないのだ。
少なくともフェルディナンは、金のためには行動していない。
ここは、原作とは真逆である。
車を捨てたかれらは徒歩で逃亡を続ける。
川を渡り…森に入り…
森を抜けたとたん、マリアンヌの服装が変わっているのだが…。
ゴダールさん、やりたい放題である。
ガソリンスタンドで、ド派手な車(フォード・ギャラクシー)を奪う。
ゴダール監督、アメ車大好き。
このまま車で逃走するのかと思ったら…いきなり車で海に突っ込んだりするのだ。
そして、海辺の保養地でだらだらと暮らし始めるふたり。
フェルディナンは、ノートとペンを手放さず、いつも観念的な日記をつけている。
思索と読書の日々。
そんなかれに退屈し苛立つマリアンヌ…。
フェルディナンは「人生は美しい」と言い、マリアンヌは「かれは人生の美しさを知らない」と言う。
これは、ジャン・ポール・ベルモンド=ジャン・リュック・ゴダールなんだろうねぇ。
われわれは、ゴダールと、ゴダールが愛したアンナ・カリーナ(撮影当時は離婚したばかり)との痴話げんかを延々観せられているのかも知れない。
このあたり原作ではどうなっているのかと言うと…逃亡したふたりは、とある町に落ち着き、上品な金持ち夫婦としての身分を作っていく。
銀行に口座を開き、運転免許証を作り、お洒落な服を着て、犬(プードル)を飼って、信用のおける人間として町の人に認知されていくのである。
が、突然破たんが訪れる。
アリー(映画ではマリアンヌ)が、我慢の限界に達し、こんな生活は嫌だ、いますぐ町を出たいと言い出すのである。
町を出て、兄のいる(本当の兄かどうかは疑問)ラスヴェガスに向かうのである。
逃げたラスヴェガスで、現金輸送車を襲う犯罪に加担することになる…。
映画は、海辺の街での生活が延々(と思えるほど長く)と続く。
ちょっと理屈っぽくて退屈だなぁと思ってると、冒頭で殺された男(たぶん武器商人)の仲間がふたりの前に現れて、いきなりストーリーが激しく動き始める。
フェルディナンは、マリアンヌが兄と呼ぶ男とともに武器商人の仲間から大金を奪う。
サスペンス映画としては、犯罪の描き方が思いっきり雑で、何がどうなっているのか良くわからない。
まあ、この作品をサスペンス映画として観るひとなど皆無だと思うが。
そしてこの犯罪が、衝撃的なラストへと続いていく。
マリアンヌに裏切られたフェルディナンは、彼女と兄を殺す。
マリアンヌの死を確認したあと、フェルディナンは自らの顔を青く塗り、あだ名通りのピエロとなり、顔にダイナマイトを巻き付けて、「俺はアホだ」と呟きながら派手に爆死する。
ラスト3分間の映画的力業。
この3分間によって、この作品は原作(文学)を軽く超えてくるのだ。
C : 読んでから観た感想
勝ち負けで言うなら、圧倒的に映画の勝ちである。
原作は、読んで三日もすれば内容を忘れるような小説だが、ゴダールの作品は、おそらく一生心に残り続ける。
ミステリー小説と言うのは、そのジャンル的性質上ストーリーの奴隷である(異論は認める)。
魅力的なストーリー無くしてミステリーは成り立たない。
が、ゴダールは、その奴隷的な部分をすべてそぎ落としている。
なので、ストーリーとしてはかなりわかり辛い(と言うか、ほとんど理解できなかったりする)。
ゴダールは、すべてを映像表現のみで語ろうとしているかのように感じられる。
であるからこそ、映画として完璧な作品になったのだろう(異論は認める)。
こういう“映像表現を一歩も二歩も先に進めようとした作品”をエンターテインメントの文脈で語ろうとして、「つまらない。観る価値なし」と言い放つひとがいるが(若いユーチューバーとかに多い)、そもそもエンターテインメントではないのだよ。
狭い意味で芸術作品なのである。
今回、原作を読んでから観ることで、ゴダールがやろうとしたことが、自分なりにわかったような気がしている。
まっ、その解釈が間違っている可能性はおおいにあるのだが。
それにしてもジャン・ポール・ベルモンドの凄さよ。
かれの出ているシーンは、すべて“映画”になっている。
かれの表情、アクション、台詞…すべてが映画そのものである。