単純な生活 / 気がつけば本を読んでいる

読書日記、ときどきブックガイド、的な。

“密” を感じつつオーティス・レディング

 

▶出勤のときの電車が若干混んでいた。

「混んでいた」と言っても、長いシートに3人座ってるくらいの混みようなのだが、それでも先週よりは “密” を感じる。

 

電車の中で、“密” を感じつつ、オーティス・レディングの『Pain in My Heart』を聴く。

 

ペイン・イン・マイ・ハート

ペイン・イン・マイ・ハート

 

 

デビュー盤。

オーティスは22歳。天才かよ(天才なんだけどね)。

「Stand By Me」は、ベン・E・キングより、このアルバムのオーティス版のほうが好きだな。

かれが、4年後に亡くなることを知っているので、どうしても、そのことを考えながら聴いてしまう…。

 

ノリノリで聴いていたら、ひと駅乗り過ごしてしまう。

 

 

小川一水の『天冥の標 VI 宿怨 Part2』を読み終わる。

 

天冥の標Ⅵ 宿怨 PART2

天冥の標Ⅵ 宿怨 PART2

 

 

ついに《救世群》が太陽系世界に宣戦布告だ。

ストーリーの裏には、ノルルスカインとオムニフロラの眩暈がするほど長い闘いがあり、そちらも気になる。

攻殻化したイサリが、なんか切ない。

(読んでない人には、なにを言ってるがさっぱりだろうなぁ…)

わくわくしながら次巻へ手を伸ばす。

 

 

▶今日読んだ短編は、フローベールの『聖ジュリアン伝』。

 

三つの物語 (光文社古典新訳文庫)
 

 

この最晩年の短編集の収録作品のなかでは、「素朴なひと」がいちばん有名だろうけど、「聖ジュリアン伝」も読みごたえがある。

中世の聖人ジュリアンに想を得て書かれた歴史ものの傑作。

無駄のない文章というのは、読んでいて気持ち良い。

短編小説パラダイス #25 / 大泉黒石の『弥次郎兵衛と喜多八』

 

タイトル : 弥次郎兵衛と喜多八

著者 : 大泉黒石

 

収録短篇集 : 『黄(ウォン)夫人の手 / 黒石怪奇物語集』

出版社 : 河出書房新社 / 文庫

 

黄(ウォン)夫人の手 ---黒石怪奇物語集 (河出文庫)

黄(ウォン)夫人の手 ---黒石怪奇物語集 (河出文庫)

  • 作者:大泉 黒石
  • 発売日: 2013/07/05
  • メディア: 文庫
 

 

大泉黒石(おおいずみ・こくせき / 1893 – 1957):ロシア人の父と、日本人の母の間に生まれる。 

母親は黒石を生んで1週間後に他界。

その後、幼少期をロシアやフランスなどの海外で暮らす。

1919年に発表した自叙伝がベストセラーとなり、華麗に文壇にデビューし、その後売れっ子作家となるが10年ほどで徐々に忘れ去られていく。

死ぬまで誰かに媚びることなく孤高を貫いた異色の作家。

 

 では、あらすじを。

 

 

★★★

 

 

とある小春日和の夕刻、弥次郎兵衛は友人の喜多八を前にして冷酒を飲んでいる。

女房のお千代は外に出ていていない。

いつもは酔うと陽気になる弥次郎兵衛なのだが、今日は様子が違う。

むっつりと黙り込み、ため息ばかりついているのだ。

元はと言えば、喜多八がいけないのである…。

 

昨日のこと。

喜多八は、弥次郎兵衛の自宅を訪れ、金の無心をした。

どうやら、奉公先の金を費い込んでしまったらしい。

近いうちにも十両の金が必要になる。

貧乏な弥次郎兵衛にとっても十両は大金だが、俺に任せておけと安請け合いしてしまう。

 

困ったことになったとは思ったけれども、親兄弟も身寄りもない喜多八が、しおれ切っているのを見ていると、つい日頃の癖が出て、「明日の晩までには、なんとか都合してやる。こんな、しみったれな生計でいたって、いざとなりゃ、十両や二十両の端数金(はしたがね)に行き詰まるような俺じゃねえから、まあ落ち着いていろ」強いことを云ったのだ。”

 

翌日、弥次郎兵衛宅を訪ねた喜多八は、早く十両の金を目にしたくてうずうずしているのだが、弥次郎兵衛はなかなか金を出してくれない。

 

落ちつけなくなった喜多八は、相手が、先刻から黙然人(もくねんじん)みたように、ただ悠然と構えたっきり、猪口の縁ばかり舐めていることが、腹立たしくなって、

「お前さんみたいに、そういつ迄も人を焦らさなくってもいいじゃねえか。都合が出来たものなら早く出してくれたって、万更罰も当たるめえよ」

と云う風な催促を始めたのだった。

「嘘偽りを言うものか。苦しい思いをして拵えた金だ。少し位はお前の焦れるところも見たくならあ。今出してやるよ」

 

と言いつつ、弥次郎兵衛は、十両が工面できた奇妙ないきさつを語り始める…。

 

喜多八に安請け合いはしたものの、なかなか金は作れない。

金を渡すと約束した日の朝、早起きして金策に走ろうとしていた弥次郎兵衛のところに、年の頃四十五か五十くらいの田舎侍が訪ねて来る。

若い娘が一緒である。

この娘が、かつて弥次郎兵衛と情を通じた娘で、どうしても弥次郎兵衛と夫婦になりたいと言ってきかないので、しかたなく連れて来たと言うのだ。

 

ここから話しがねじれ始め、最後のページに至って、読者は「ええっ?」と驚くことになる。

頭の中が?マークでいっぱいになる。

で、もう一度最初から読み返すことになるのだ。

大泉黒石に奇妙な一本背負いをかまされたことはわかるのだが、それがあまりに奇妙なので、どうも納得がいかないのである。

 

奇妙な味の短編というのは世の中にたくさんあるが、これはその最たるもののひとつである。

 

 

★★★

 

 

収録短編集 『黄(ウォン)夫人の手 / 黒石怪奇物語集』 について

 

黄(ウォン)夫人の手 ---黒石怪奇物語集 (河出文庫)

黄(ウォン)夫人の手 ---黒石怪奇物語集 (河出文庫)

  • 作者:大泉 黒石
  • 発売日: 2013/07/05
  • メディア: 文庫
 

 

「戯談」「曾呂利新左衛門」「弥次郎兵衛と喜多八」「不死身」「眼を捜して歩く男」「尼になる尼」「青白き屍」「黄夫人の手」の8編を収録。

 

現在、手軽に読める唯一の短篇集。

「曾呂利新左衛門」も、怪奇小説と見せかけて、最後に「ええっ? そんな手ありか?」と言わせる異色の傑作。

 

 

こちらもおすすめ

人間開業』

 

人間開業

人間開業

 

 

「人間開業」は、黒石の処女作。

1919年に雑誌「中央公論」に「俺の自叙伝」として連載され、出版されるやベストセラーとなった作品。

 「アレキサンドル・ワホウィッチは、俺の親爺だ。親爺は露西亜人だが、俺は国際的な居候だ。」と言うカッコイイ一文で始まる自叙伝は、とても大正初めに書かれたとは思えないほどスピード感に溢れた文体で、ぐいぐい読める。

少年時代に文豪トルストイの近くに住んでいたらしいのだが、本の中では、文豪を変な爺さん呼ばわりしていて笑ってしまう。

たしかに変な爺さんっぽいのだが。

 

 

ヘミングウェイの『殺し屋』を読み、キム・リッチーの新作に癒される

 

ヘミングウェイの『殺し屋』を読む。

 

ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)

ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)

 

 

最初に読んだのは、中学のときで、江戸川乱歩編の『世界短編傑作集』に収録されていた。

 

世界推理短編傑作集3【新版】 (創元推理文庫)

世界推理短編傑作集3【新版】 (創元推理文庫)

  • 発売日: 2018/12/20
  • メディア: 文庫
 

 

この傑作を、中坊のワタシは生意気にも「たいして面白くないな」と思ったのである。

ラストがよくわからなかったのである。

 

 ヘンリーの店のドアが開き、ふたりの男が入ってきた。ふたりはカウンターにすわった。

「何にします?」 ジョージが尋ねた。

「さあな」 ひとりが言った。「おまえは何が食いたいんだ、アル?」

「さあな」 アルと呼ばれた男が答えた。「何が食いたいかわからねえ」

 

入ってきたふたりは、殺し屋である。アルとマックス。

店には従業員が3人。ニック・アダムス、ジョージ、コックのサム。

ふたりは、始終むだ口をたたきあいながら、コックのサムとウェイターのニック・アダムスを縛り上げて調理場に隠す。

残されたジョージには、客が来たら何か理由をつけて追い返せと命じる。

 

「おれたちはあるスウェーデン人を殺すんだ。オール・アンダーソンっていうスウェーデン人を知ってるな?」

「ああ」

「そいつは毎晩ここに食事をしにやってくる。そうじゃないか?」

「時々くる」

「おれたちは何もかも知ってるんだ、兄さん」マックスが言った。

 

かれらは、アンダーソンが来るのを、じっと待つ。

 

「あんたたちは何のためにオール・アンダーソンを殺すんだ? あの人があんたらに何かしたのか?」

「いや、やつがおれたちに何かするような機会なんてなかったよ。おれたちを見たことさえないだろう」

「たった一回だけ見ることになるな」 アルが調理場から言った。

「じゃ、何のためにあんたたちはオール・アンダーソンを殺すんだ」ジョージが尋ねた。

「おれたちは友達のために殺すんだよ。ただ頼みをきいてやるだけだ、兄さん」

 

 

しかし、アンダーソンは現れない。

殺し屋ふたりは、店を出て行く。

ニック・アダムスは、殺し屋のことを知らせるために、アンダーソンのもとへ走るのだが…。

 

と、ここまでは中坊のワタシにも理解できた。

わからなかったのは、ニックから知らせを受けたアンダーソンがとった行動なのである。

ネタバレになるので書かないが、ええっ? アンダーソンさん、なんで? と思ったのである。

年齢を重ねたいまならわかる。

痛いほどわかる。

 

ヘミングウェイが、この怖いくらいの傑作を書いたのは、28歳のときである。

一晩で書き上げたらしい。

この老成した感じはただ者ではないな(まあ、天才作家だからね)。

 

 

 

▶ キム・リッチーの『Long Way Back』を聴く。

 

Long Way Back: The Songs Of Glimmer

Long Way Back: The Songs Of Glimmer

  • アーティスト:Kim Richey
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: CD
 

 

ワタシの、好きな女性アーティスト・ベスト3に入る。

新作。

ミドルテンポの曲が並ぶ。

やはり声が良いなあ。

 

 

 

変態ちっくな傑作、草野唯雄の『甦った脳髄』を読む

 

草野唯雄(ソウノ・タダオ 1915 – 2008)の『甦った脳髄』を読む。

 

甦った脳髄 (角川文庫 (5642))
 

 

1976年の作品。

よくもまあ、こんな凄い話しを思いついたものだと感心するような傑作である。

ストーリーの核になる部分は、名作『アルジャーノンに花束を』にそっくりなのだが、読後感というか、作品が目指す先が真逆なのだ。

 

T大学理学部宇宙物理学教室の瀬下主任教授が急逝し、教授の遺言により、その遺体は解剖生理学教室に寄贈されることになった。

その知らせを聞いたとき、阿賀助教授の心ににある考えが芽生える。

 

T大学、解剖生理学教室の阿賀助教授のひとり息子一郎は、知的障害者だった。

幼いころにかかった脳脊髄膜炎の後遺症で、知能指数は4、5歳児の幼児程度で止まったままなのである。

その息子の知能を、せめて人並みに上げてやりたい。

阿賀助教授はそう考えた。

利用するのは、不破博士の研究である。

不破博士は、人を含めて動物の記憶と言うものは、化学物質として脳から抽出することができ、さらにそれを注射などによって他者へ移植することができると考え、すでに動物実験を開始していたのである。

阿賀助教授は、まだ動物実験の段階のその技術を使って、亡くなった瀬下教授の記憶を、息子の一郎に移植しようと考えたのだ。

 

「しかし、きみ……」思ったとおり、博士は逡巡した。

「わたしの実験は、まだやっとネズミを卒業した段階だ。それを一足とびに人間で実験するというのは、あまりに無謀すぎはせんかね」

(中略)

「ぼくが、先生の理論と実験の成果に百パーセントの信頼をおいているからこそ、こうしてお願いしているんです。+5と-4を合わせると+1が残るでしょう。息子をその+1、つまり普通程度の知能をもった人間に変えて下さい、とお願いしているだけなんです」

 

阿賀助教授の必死の嘆願に、瀬下博士も根負けし、他言無用を条件に阿賀一郎への実験を承諾する。

そして、実験は成功する…。

一郎の知能は徐々に上がり始めるが、それとともに、性格も変わり始める。

やがて、地獄のような一夜が訪れる…。

 

『アルジャーノン…』の美しい世界がだいなし(笑)。

 

 

 

 ▶ドリー・ヘミングウェイ主演の『チワワは見ていた』を観る。

 

 

監督は、ショーン・ベイカー(才能あるわー)。

主演は、文豪ヘミングウェイの曾孫、ドリー・ヘミングウェイ(脚が長い~)。

 

ひょんな偶然から始まった21歳のポルノ女優と85歳の未亡人の友情を描く。

と書けば、こころ温まる映画のようだが、そういう安易な想像を、この映画は拒む。

まず、85歳の未亡人がなかなか心を開かない。

ポルノ女優の方も未亡人には言えない秘密を抱えている。

なので、ふたりの関係は常に緊張をはらんでいて、ぎくしゃくしている。

その様子をカメラが静かに追う。

ラスト、ある事件があって初めて未亡人が心を開く。

美しい友情の始まりを予感させて映画は終わるのだが、このラストがちょっとわかりづらいかも知れない。

ワタシは、良いラストだと思った。

 

それにしても、邦題(笑)。

 

 

 

▶暑いのでクーラーをいれた。

今年、初クーラー。

夏の暑い盛りにマスクはきついだろうなあ。

いまから憂鬱。

 

 

 

 

ジョイスが「完璧」と称賛したのも当然と思える傑作と下ネタ連発映画

 

ヘミングウェイの『清潔で明るい場所』を読む。

ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)

ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)

 

 

深夜、閉店まぎわのカフェ。

主な登場人物はわずか3人。

 

ブランデーを飲みながら、なかなか帰らない常連の老人。

老人が帰ったら店を閉めようと思っている若いウェイター。

まだ店は閉めたくないと思っている、少し年上のウェイター。

この3人だけ。

文庫本で10頁ほど。

描写のほとんどは、ウェイター2人の会話である。

 

「先週、あの人は自殺しようとしたらしい」

「なんでだ」

「絶望したんだ」

「何に?」

「何かにってわけじゃない」

「何かに絶望したんじゃないってどうして分かるんだ」

「あの人は金をもっている」

 

事件は何も起きず、したがってここに「お話し」はない。

深夜のカフェでの、1時間にも満たない描写だけである。

しかし、すぐれた写真が一瞬のスナップ・ショットで多くのことを語るように、ヘミングウェイは、驚くほど多くのことを、私たちに伝えてくる。

 

「もう一杯」老人は言った。

「だめだ、終わり」ウエイターは、テーブルの縁を布巾で拭きながら言った。

 老人は立ちあがってゆっくりと皿を数え、ポケットから革の硬貨入れを取りだして飲んだ分を払った。チップを半ペセタ置いた。

 ウエイターは老人が通りを去って行くのを黙って眺めていた。老人はとても歳をとっていたし、足許が覚束なかった。しかしどこか毅然としたところがあった。

 

カトリックの国である。

自殺はけして許されることではない。

自殺を試み、失敗し、それでもなお生き続ける老人の姿…。

 

読み終わったあと、、3人それぞれの人生と、そこに漂う虚無感がしっかりと心に残る。

ジェイムズ・ジョイスが「完璧」と称賛したのも当然と思える傑作。

 

 

 

ケヴィン・スミス監督の『クラークス』を観る。

クラークス [DVD]

クラークス [DVD]

  • 発売日: 2001/02/26
  • メディア: DVD
 

 

定点観測映画とでも言うのか、カメラは主人公がバイトするコンビニの中からほとんど動かない。

たまにシーンが変わったと思ったら、隣のレンタル・ビデオ屋である。

で、21歳のダンテ・ヒックスと悪友ランダルの、だらだらとした日常が映し出されるのだ。

いやあ、くだらなくて面白い。

ネタのほとんどが下ネタなんだが。

ケヴィン・スミスの監督デビュー作。

コミック本を売ったお金で作ったらしい(なのでモノクロ)。

シリーズ化されてるようなので、次も観てみよう。

 

 

 

▶ちかくの和菓子屋でマスクを売っている(笑)。

1箱(50枚入り)が3千円。

店頭には「マスクあります!」の幟(のぼり)がはためいている。

繰り返すが、和菓子屋である。

こんなシュールな時代を生きることになろうとは…。

 

 

 

 

短編小説パラダイス #24 / レオ・ペルッツの『月は笑う』

 

タイトル : 月は笑う

著者 : レオ・ペルッツ

 

収録短編集 : 『アンチクリストの誕生』

訳者 : 垂野創一郎

出版社 : 筑摩書房 / 文庫

 

アンチクリストの誕生 (ちくま文庫)

アンチクリストの誕生 (ちくま文庫)

 

 

レオ・ペルッツは、1882プラハ生まれのユダヤ人作家。

第二次世界大戦前は、出す本すべてが好評価の売れっ子作家だったが、戦後は、かつての人気が嘘のように忘れ去られる。

晩年に出版した傑作『夜毎に石の橋の下で』は、出版数も少なく、ほとんど話題にもならずに終わる。

1957年没。

 

「月は笑う」は、「アンチクリストの誕生」と並ぶ、ペルッツの代表的短編のひとつ。

 

では、あらすじを。

 

 

★★★

 

 

老弁護士が語る奇妙な一族の物語……。

 

サラザン家の末裔フレーリヒ男爵は、四十歳のときにある病を発症する。

それは、サラザン家に代々伝わる病であった。

ある夜、男爵の家に泊まることになった老弁護士は、その症状を目にすることになる。

 

「たいそう気味の悪い晩ですね」と彼は言い、空を指しました。

わたしは外を見ました。

「変わったところは何もありませんよ。星の明るい、すばらしく美しい夜じゃありませんか。雲だってひとつもない」

「ええ」男爵の声はかすかに震えていました。「雲がひとつもなくて、月が下界をにらんでいます。ほら、いかにももの欲しげに下をにらんでるじゃないですか」

とつぜん男爵は顔を真っ赤にして歯をくいしばりました。

「ほらごらんなさい。もちろんあなたは笑うでしょうとも。でも笑い事じゃありません。真面目な話です。病なんです。この体には病が潜んでいるのです。血に潜んでいるのです。受け継いだんです」

「何を受け継いだというのです」

「病をですよ。不安を、怖れを受け継いだのです」

「怖れをですって」

「ええ」男爵は窓辺から離れました。「わたしは月が怖いのです」 

 

 

 

男爵が語る一族の歴史は、まさに月との闘いの歴史であった。

フランス革命期、王党派だった曾祖父は、共和国軍に囲まれて籠城していた。

弾薬も尽き果て、同志たちとともに、雨夜の闇にまぎれて共和国軍の包囲を突破して逃げようとした。

しかし、その瞬間、月が雨雲を押しのけて、逃げ遅れた曾祖父の姿を皓皓と照らしたのだ。

曾祖父は敵の銃弾に倒れた。

また、軍人のオリヴィエ・ド・サザランは、野営地で、カルヴァリン砲や榴弾砲で満月を狙って、二時間にわたり発砲させたと言う。

オリヴィエ自身も、天幕の前に腰を据えて、呪いの言葉を吐きながら、ずっしりとした騎兵用ピストルで、夜が白むまで月を撃ち続けた。

そして翌日、かれは天から降ってきた奇妙な石に頭を砕かれて死ぬことになる。

また叔父のひとりは、満月の夜になると、村の教会の祭壇の下に這いこみ、夜通し聖書の唱句を喚いていたと言う……。

 

「わたしの先祖で、サラザン家の運命を月に繋ぐ鎖について、間違いなくわたしよりよく知るものがいた。だがその秘密は幾世紀の堆積に埋もれてしまった。だがオリヴィエ・ド・サラザンはかろうじて知っていた。なぜ月に向けて弾を撃たせたかわかっていた。そしてあのメルヒオール・ド・サラザンは、笛吹きと太鼓叩きをつけて国中に使者を遣わし、大海原の月が新たな罪を犯そうと毎晩顔を出す場所に重い岩盤沈めたものには四ポンドの金に加えて宝石や首飾りを与えよう、と船乗りたちに約束した」 

 

 

男爵は、自らが抱いている月への神秘的な妄想を、その天文学的実体を目にすることで追い払おうと企て、望遠鏡を手に入れる。

そして、その計画は功を奏したかに見えたのだが……。

 

 

★★★

 

 

収録短編集 『アンチクリストの誕生』 について

アンチクリストの誕生 (ちくま文庫)

アンチクリストの誕生 (ちくま文庫)

 

 

ペルッツの生前に出版された唯一の短編集である。

収録作品は、「主よ、われを憐れみたまえ」「一九一六年十月十二日火曜日」「アンチクリストの誕生」「月は笑う」「霰弾亭」「ボタンを押すだけ」「夜のない日」「ある兵士との会話」の8編。

いずれもペルッツらしい奇想に満ちた作品ばかりで、読んでいて楽しい。

訳者の解説も、この作家のことを知るには最適。

 

 

こちらもおすすめ

『月 / ベアント・ブルンナー』(白水社

月: 人との豊かなかかわりの歴史

月: 人との豊かなかかわりの歴史

 

 

太古から続く人と月との関りを綴った科学ノンフィクション。

人類でただ一人、遺灰を月に葬られた人がいることを、この本で初めて知った。

 

 

『眠れない一族 / ダニエル・T・マックス』(紀伊国屋書店

 

ヴェネツィアのある貴族は、先祖代々、数世紀にわたって奇妙な不眠症に苦しんできた。

ある年代で突然発症し(発症しない人もいる)、眠ることができなくなる。

やがて脳がスポンジ状となり、苦しみながら死に至る…。

謎の不眠症の正体とは何なのか…?

恐ろしい病に憑りつかれた一族を追った科学ノンフィクション。

 

 

◇『夜毎に石の橋の下で / レオ・ペルッツ』(国書刊行会

夜毎に石の橋の下で

夜毎に石の橋の下で

 

 

ルドルフ二世時代のプラハを舞台にした14の物語。

ひとつひとつ独立した短編として読めるが、内容や登場人物はゆるく繋がっていて、読み進めるにしたがって全体像が見えてくる。

構成が計算されつくされていて見事。

レオ・ペルッツで、おすすめを1冊と言われたら、迷うことなくこれを推す。

 

 

 

 

 

 

今日も、ヘミングウェイを読む。そして観なければよかった映画『ヘンリー』

 

▶今日も、ヘミングウェイを読む。

 

 

名作『敗れざる者』。

最初に読んだのが中学のときで、あれから何回も読んできている。

読み返すたびに「ああ、良いなあ」と思うが、そう思えるようになったのは三十歳を過ぎてからである。

若い頃は、どこが面白いのかよくわからなかった。

まっ、いまでも「どこが面白いんですか?」と訊かれると、うまく答えられなくて困るんだけど。

 

周囲から、もう引退しろよと言われている闘牛士が、自らの負けを認めずに闘い続ける話しである。

けして勝者ではない。

彼は勝てない。もはや勝つことが難しいのだ。

しかし、まだ敗者ではない。

それは自分が認めていない。

敗れざる者。

そのぎりぎりの矜持と、それに伴う哀しさが読んでいて胸に迫ってくる。

闘牛のシーンも迫力があって素晴らしい。

 

 

 

▶ Eggs Over Easy の『Good'n' Cheap』を聴く。

 

Good 'n' Cheap

Good 'n' Cheap

 

 

ゆるゆるのヘタウマ・バンド。

ちょっと暑い夜には、ちょうど良い。

 

 

 

ジョン・マクノートン監督の『ヘンリー 』を観る。

 

ヘンリー(字幕版)

ヘンリー(字幕版)

  • 発売日: 2019/06/12
  • メディア: Prime Video
 

 

邦題には「ある連続殺人鬼の記録」と副題がついている。

300人以上の女性を殺害した実在の殺人鬼ヘンリー・リー・ルーカスを描いた映画。

怖い…。

世の中には観たらまずい映画というのが存在するわけで。

これは、その最右翼だな。

 

血しぶきが飛び散るような残虐なシーンは、ほとんどない。

まるで仕事のように淡々と殺人を繰り返すヘンリーの日常を、カメラが追う。

そのドキュメンタリー・タッチが凄く怖い。

観始めて10分くらいで、「この映画はやばいな」と思ったのだが、画面から目を離すことができず、最後まで観てしまった。

ラストが、妙に切ない。

怖いのに切ないって、どういうことだよ。