ありふれた日常 #60 / 老人はこらえ性がないのだ
▶午前5時起床。
熱くて苦い珈琲をちびちび飲みながら、ぼんやりした頭でぼんやりする。
最初の“ぼんやり”は形容詞で後の“ぼんやり”は動詞である。
頭の霧が少し晴れたところで読書。
書名は記さないが、100頁ほど読んだところで挫折。
そこそこ評判の本なのだが、まったくノレなかった。
もう少し我慢すれば面白くなるのかも知れないが、老人はこらえ性がないのだ。
むりやり鯛焼きに例えるけど、頭から食べ始めてもなかなか美味しい餡に辿り着けず、やっと尻尾あたりで絶品の餡が出てきてもしかたないと言うか、それはもう評価としては不味い鯛焼きだろう、と思うのである。
(もちろん、絶対評価としての美味しい不味いを言ってるわけではない。わたしにとって美味しいか不味いかである)
若い頃は、面白くなくても無理やり最後まで読み切っていたのだが、さいきんはすぐに投げ出してしまう。
老人に残された読書時間には限りがあるので、つまらないと感じる本は世間の評判に関係なく早々と本を閉じることにしている。
読み始めた本を途中で投げ出すことには(なんか負けた感じがして)強い抵抗を感じていたのだが、さいきんはまったく躊躇なく投げ出している。
何事も慣れであるな。
▶午後、妻の買い物に付き合って上野へ。
上野に出て来たのは半年ぶりである。
相変わらずごみごみとした街で、あまり好きになれない。
アメ横でスパイスを買ったあと、松坂屋の地下食料品売り場に降りようとするも1階コスメ売り場の匂いにふたりとも気分が悪くなり、逃げるように外へ出る。
みんな平気な顔しているが、相当臭いぞ。
人混みと匂いにやられて、へとへとで帰宅。
▶夕方、ちかくのお寺まで散歩。
歩いて5分くらいなので散歩と言うほどでもないのだが。
境内のベンチに座って暮れゆく空を見ていると、ちかくのおばちゃんふたりが楽しそうに天気の話をしている。
「急に寒くなって、秋を通り越してもう冬ね」とか「明日あたり久しぶりに雨が降るみたいよ」とか「そう言えば台風が発生したみたい」とか、じつに楽しそうに話している。
中学高校生の頃、大人たちが楽しそうに天気の話をしているのが不思議でしょうがなかった。
天気のことなど、そんなに面白い話題でもないだろうに、なぜ彼らはああも楽しそうに天気の話をするのだろう…?
そう思っていた。
いまなら、その理由がよくわかる。
ほとんどの大人にとって毎日は同じことの繰り返しなのである。
昨日と今日にたいして違いはない。
今日と明日にも違いはないのだ。
違うのは、その日の天気だけなのである。
若い頃は、昨日と違う日常が今日起こり、明日はまた今日と違う何かが起こっていたし、とうぜん天気なんかよりはそちらの方が楽しいに決まっていた。
しかし、大人は違うのだ。
天気しか変化がないのだよ。
寂しいことではあるが。
▶夜、Netflixで『端くれ賭博人のバラード』を観る。
コリン・ファレル主演のギャンブラー物。
舞台はマカオ。
バカラにのめり込んで底の底まで落ちていく男の物語。
評判は、あまりよろしくないようだが、わたしは面白かった。
▶前回のアップから、また1カ月以上経ってしまった…。
まあ、1カ月が“長い”という感覚もなくて、なんなら一瞬と言っても良いくらい短く感じているのである。
文字通り、「あっ」と言う間。
次回のアップもたぶん「あっ」の後だろう。