単純な生活

映画・音楽・読書について、だらだらと書いている

読んでから観る! #3 / 『日の名残り』

 

A : 読む  『日の名残り / カズオ・イシグロ著』

 

1989年にイギリス最高の文学賞であるブッカー賞を受賞した名作。

 

舞台は第二次大戦後数年経った、1956年のイギリス。

語り手は初老の執事スティーヴンス。

長きにわたり英国貴族のダーリントン卿に仕え、卿亡きあと、現在は屋敷(ダーリントンホール)を買い取ったアメリカの富豪ファラディ氏のもとで働いている。

 

ティーヴンスは、主人の勧めもあり、久しぶりにひとり旅に出る。

ファラディ氏のフォードに乗って、目指すのはかつてダーリントンホールで一緒に働いていた女中頭のミス・ケントン(現在は結婚してベル夫人)の住む町。

その旅の途上で、彼は自身が過ごしてきた執事としての人生を振り返る。

「“人々がどう記憶を使い過去を振り返るのか”が、この物語のテーマだ」と著者は語っている。

そして「記憶は当てにならないものだ」とも。

つまり、スティーヴンスが自らの記憶によって語る過去は、信用できないと言うことだ。

その信用のできなさが、ある種のサスペンスとなり、じわじわと読み手に伝わってくる。

やがて、“信用できない過去の記憶”の向こう側から残酷な真実が立ち現われ、それは主人公を容赦なく打ちのめす。

打ちのめされるのは主人公だけではなく、彼の語る“過去”に向き合ってきた読者もまた、スティーヴンスとともに、真実の前で茫然と立ちすくむことになる。

 

小説を読むことの愉悦を100%感じさせてくれる名作。

 

 

B : 観る  『日の名残り / ジェイムズ・アイヴォリー監督 』

 

1993年制作のイギリス映画。

監督は名匠ジェイムズ・アイヴォリー(「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」「モーリス」など)。

脚本にはノーベル賞作家のハロルド・ピンターが参加しているらしい(なぜかクレジット無し)。

主演はアンソニー・ホプキンスエマ・トンプソン

 

映画は、ダーリントン卿の死後、屋敷で行われた競売のシーンから始まる。

ダーリントン卿の不幸な死と没落が、ミス・ケントンからの手紙というかたちで暗示される。

そして執事スティーヴンス(A・ホプキンス)が登場。

画面が一気に引き締まり、あとはスティーヴンスから(と言うか、A・ホプキンスから)目が離せなくなる。

 

カズオ・イシグロは、NHKで放送された『カズオ・イシグロの文学白熱教室』のなかで、『日の名残り』について、「映画や芝居ではできないことをやりたかった」と語っている。

つまり物語を時系列で語っていくのではなく、現在を語りつつも、そこに過去が違和感なく入り込んでいる感じを描きたいと。

いわゆる“回想”とは少し違う。

語っているシーンが現在から過去に飛んで、過去の出来事がこんどは現在として語られると言うのではなく、時間軸はあくまでも現在にありつつ、そこに過去が入り込んでいる状況(ややこしいw)。

「映画や芝居ではできないこと」をやった小説を、映画で描くのはむつかしい。

 

カズオ・イシグロの手法がかもしだす、何とも言えないサスペンスが、この映画にはない。

“信用できない語り手”であるスティーヴンスの、その信用できない感じを映画で描くのは容易ではない。

そのせいか、重厚で面白い映画ではあるのだが、原作を読み終わったあとに来る感動が映画にはなかった。

 

映画と原作小説を比べて勝敗をつけるつもりはないが、「映画や芝居でできないことを小説でやりたかった」と言うカズオ・イシグロのたくらみは、見事に成功していると、映画を観てそう思った。