▶『胡同の理髪師』を観る。
2006年制作の中国映画。
胡同(ふーとん)とは、地名ではなく、北京に点在する細い路地のことである。
道沿いには、四合院と呼ばれる独特の集合住宅(中庭を囲むように建物が建ち、出入りするための大きな門がある)が並ぶ。
胡同と四合院の紹介映像。
10分過ぎに出てくる胡同のジオラマが素晴らしい。
番組の最初の方で、女性MCが「立体的綜合的生命体」という言葉を使っているが、それが四合院をよく表した言葉なのだろう。
日本の掘割長屋のようなものか?(たぶん違う)
この胡同の片隅で、93歳のチン爺さんは理髪店を営んでいる。
ひとり暮らしである。
朝、古い振り子時計の音で目を覚まし、コップに浸けてる入れ歯をカチャっと装着。
その後、小さな荷車付の三輪車で胡同を移動し、病気とかで外に出ることができない老人たちの髪を刈っていく。
午後は、たまに麻雀仲間と宅を囲む。
夜になると、入れ歯を外し、床につく。
毎日が、この繰り返しである。
その静かな日常を、カメラがドキュメンタリー・タッチで追っていく。
主役のチン爺さんを演じているのは、チン爺さん本人である。
台詞まわしが自然なのか不自然なのかは、中国語がわからないわたしには、ちょっと判別できないのだが、観ているかぎりでは不自然な印象は受けない。
最初は、純粋にドキュメンタリーだと思って観始めたのだが、客の家を訪ねてドアを開けるチン爺さんを、家の中から撮っていたりとか、映画的なカット割りがちゃんとされているので、ドキュメンタリーでないことはすぐにわかる。
純粋なドキュメンタリー映画ではないのだが、かと言ってストーリーがあるかと言うと、それもないのである。
映画は、チン爺さんの日常の繰り返しを淡々と映していく。
老人を主人公にした映画の多くがそうであるように、この作品にも遠からず訪れるであろう“死”が、ひっそりと寄り添っている。
訪ねて行った客が部屋のなかで孤独死しており、白布を被せられて運び出される。
その家の前に腰かけて静かに煙草を吸うチン爺さんの姿は胸に迫る。
麻雀仲間のひとりが、ぽつりと「みんな逝っちまう」と呟く…。
自分の遺影の準備のために写真を撮るチン爺さん…。
この映画の中で語られる“死”は、チン爺さんの“死”であり、胡同に暮らす多くの老人たちの“死”であり、再開発で取り壊されていく胡同そのものの“死”である。
その迫り来る“死”に対して強く抗うこともなく、チン爺さんは毎日を静かに生きている。
その穏やかな“生”の積み重ねが、映画を観ているわたしたちのこころにも、ゆっくりと沁み込んでくる。
“生”は、チン爺さんのように、しっかりと積み重ねていけば、やがて来る“死”と同じ重さとなり、最終的にはゼロ地点へとわたしたちを運んでいくのだ。
そういう思いを強くして、映画を観終わったとき、わたしはチン爺さんに尊敬の念を抱きつつ頭を垂れたのである。
ちなみに、わたしの“生”は、(もちろん)紙風船のように軽い。
なお、チン爺さんは、この後104歳まで生きて天寿を全うしている。
▶ Yo-Yo Ma の『Plays Ennio Morricone』(2004)を聴く。
エンニオ・モリコーネの楽曲が、チェロ組曲風に再構成されている。
美しい。
ため息。
ヨーヨー・マは、超絶巧いのにもかかわらず、それを「超絶巧いなぁ」と感じさせないほど、超絶巧い。
▶川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの受賞候補作家に、石川達三が入っていたことを知って、ちょっとびっくりしている。
ほとんどの作品が絶版状態で、いまや忘れられた作家のひとりである。
わたしが若い頃、つまりまだ石川達三が生きていた頃には、おそらくほとんどの作品が文庫化されて書店に置いてあったほどの人気作家だった。
映画化されたりTVドラマになった作品も多い。
とうじ古本業界の片隅で働いていたわたしは、毎日大量に入って来る石川達三の文庫本に少々うんざりしていた記憶がある(ちなみに、他には赤川次郎と和久俊三と森瑤子にうんざりしていた)。
死後、急速に忘れさられていったわけだが、なぜなんだろうなぁ…?
タイトルが流行語になるくらい時代の風俗とべったりな作風が原因かな、とも思うが。
作者の死とともに読者も死んだと言うことか?
読者が継承されなかったと。
そう考えると、古典って凄いな、と当たり前なことを思う。