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短編小説パラダイス #10 / 岡田睦の『火』

 

タイトル :火

著者 : 岡田睦

収録短篇集 : 『明日なき身』

出版社 : 講談社 / 文芸文庫 (2017

明日なき身 (講談社文芸文庫)

明日なき身 (講談社文芸文庫)

 

 文庫カバーの袖に書かれている著者略歴は以下の通り。

岡田睦(おかだぼく)、1932年東京生まれ。慶応義塾大学文学部仏文科卒。1960年に「夏休みの配当」で芥川賞候補。3度目の妻と離婚後、生活に困窮し、生活保護を受けながら居所を転々とし、『群像』2010年3月号に「灯」を発表後、消息不明。

 

 消息不明というのが凄い。

 

 では、あらすじを。

 

 

★★★

 

正月二日。著者は、暖房のない部屋の中で寒さに震えている。食料はふりかけしかない。それを水で飲み下す。

少しでも暖をとろうと、洟をかんだティッシュを空の段ボール箱の中に入れて、ライターで火をつけて燃やす。暖かくなるのは一瞬のことで、火はすぐに壁へと燃え移る。

あげくアパートの一室を全焼。

この火事によって、著者は大切にしているもの全てを失ってしまう。

 

悲惨としか言いようがないが、誰かのコントを見ているようでもある。火が強くなったときに、どんぶりに入れた水で、なんとか火を消そうとする場面は、笑いどころのような気もするが、けして笑ったりはできない。読みながら唖然とするばかりである。

 

 また、とっておいたふりかけ。一袋嚥んで、水を飲む。正午前から寝た。クスリは効いている。三時頃起きた。まだ、明るいが、冷気で全身が震える。上歯と下歯が噛み合わない。ガチガチいわせながら、毛布を肩から掛けた。

(中略)

 風邪治ってないせいもあって、洟いくらでも出る。洟をかんだティッシュペーパー、燃やせるゴミ袋に入りきらず、溢れてこぼれ落ちている。町の広報誌に、正月三が日は回収しないとあった、と記憶する。確認するのは面倒だ。このティッシュを、からのダンボール箱に入れて燃やそう。底を見ると、新聞紙が敷かれてある。それに、ライターで火を点けた。ティッシュをすこしずつ燃やしたら、安全に暖がとれる。新聞紙のめらめらに、洟をかんだティッシュを二、三枚投げ入れた。たちまち、あったかくなる。これらを灰にすれば、紙屑も片づく。あれ。ダンボール箱そのものの炎が上がっている。まずい。傍にあった何かのボール紙で、火を叩いて消そうとした。ボール紙に火が移った。いけない。といっても、消火の手だてをしらない。縦にふたつに割れて、ガムテープを貼ったコップ以外に、このおんぼろアパートの部屋にある唯一の食器、どんぶり。それへ、流しの水道の水を入れて、火に投げかけた。何回もやった。消えないどころか、壁のあちこちから火と煙が出て、ロフトの高い天井へ立ちのぼっていた。しまった。どうして壁が、と考える前に、この煙は“毒ガス”だと思った。新建材が燃えると、火より毒ガスを吸って、倒れる人が多いと聞く。とっさに、一一九番することにした。が、熱い。ダイアルを廻せない。靴下のみで部屋を飛び出し、腰痛なのに走って向かいの家のドアをあけた。常日頃はたがいに挨拶もしないが、奥さんらしき女の人がいたので、

「すみません。一一九番かけて下さい」

 意味が通じたかどうか、分からない。なぜ、自分でかけなかったのか。これも、考えなかった。

 そのあと、どうしたのか覚えていない。 ~p.160, 161

 

火事により部屋を出ざるをえなくなった著者は、住処を失い、以後は、ケースワーカーの言う通りに施設を転々とする。

ホームレス一歩手前の状況なのだが、文章からは悲壮感が少しも漂ってこない。泣き言めいたことは一言も口にしない。

岡田睦、ただの下流老人ではないのである。

 

★★★

 

収録短編集 『明日なき身』 について

明日なき身 (講談社文芸文庫)

明日なき身 (講談社文芸文庫)

 

2006年に出た著者最後の作品集『明日なき身』に、2010年文芸誌に発表された「灯」を追加して1冊にまとめたもの。

収録作品は、「ムスカリ」「ぼくの日常」「明日なき身」「火」「灯」の5編。

最後に収められている「灯」も鬼気迫る傑作。

 

 

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